神田上水懸樋跡
水道橋駅より御茶ノ水駅寄りの道路脇にあります。上水工事が、町人の請負に付されたことが史料から伺われます。延宝5年3月の町触に、「元吉祥寺前の上水道御普請、入札に仰せつけられ候間、望之者は印判を持ち、奈良屋所へ参じ・・・」

発掘された江戸上水(東京都水道歴史館提供)
外務省構内から、昭和53年5月に発掘された遺跡です。

(「東京市史稿 上水編」)とあります。元吉祥寺とは、現在の水道橋駅前の都立工芸高校の場所です。神田上水の管理は奈良屋ほかの町年寄三家に任されており奈良屋所とは奈良屋役所のことで、入札に応じたいという者はハンコを持って手続きをせよという意味です。5月には「このたび、元吉祥寺下の上水大渡樋御普請、入札に仰せつけられ候間・・・・」という町触が出されました。
 
上水の維持管理
神田上水は湧水池から、玉川上水は多摩川から、取水したままの水を自然の流下で市内の境目までは掘割水路(開渠)でひき、市中に入ると地下に埋められた木と石の樋で導かれ、市内各所の溜枡に溜められ、溜枡からは伏樋で町の上水井戸に通水され、各家はここに来て水を汲み水瓶か水桶に溜めて使いました。樋や枡は多種で、松・檜の木樋は水が漏れるのを防ぐために檜の皮が継ぎ目や合わせ目に詰められ、大容量の水を扱う石樋は漏水を防ぐため石と石の間に粘土が詰められました。
水道の管理を担当した役所は、初期のころは上水奉行・町年寄支配・道奉行で、中期から町奉行・普請奉行、のちに作事奉行の管轄となりました。
維持管理のための施設としては、玉川上水の場合、羽村を含めて5ヵ所の水番屋があり、水番人(地元の有力農民)が末端の実務担当者でした。開渠部分は水源保護のため「魚をとるな、水を浴びるな、ゴミを捨てるな、洗いものをするな」という高札が立てられて、水番人が見まわって水量の調節、塵芥の引き上げと除去をおこない、その状況は逐一報告されました。水路両岸の草刈りもおこなわれましたが、筏を組んで刈り取った草が水路に落ちないように注意し、もし落ちたときは村々から清掃料をとりたてました。市中には水見枡という水量を定量的に読みとる設備があって、水の流れや汚れ具合を定期的に観察しました。
玉川上水の四谷大木戸の水番屋には、基準水量がわかる仕掛けがあって、基準を上回ると下水に落としました。増水時や渇水時の羽村の水番人の仕事は、たいへんでなものでした。濁水対策もされていました。近代水道のような浄水装置が無い「水道」でしたが、化学物質による水質汚染の心配も無く江戸っ子は300年の間自然の水を飲み続けました。
 
 
今月の表紙
 
◎「東都名所日本橋真景並魚市全図」(江戸東京博物館所蔵)
天保年間(1830〜44)、歌川広重(初代)画、鳶屋由蔵版。日本橋、魚河岸、江戸城、富士山という名所・日本橋の定番となった要素を全て描いている。写実性が高く、情報豊かな作品。酒や米俵を積み上げて、日本橋川を往来する多くの船に混じって、4人の漕ぎ手がつく鮮魚運搬専用の押送船(おしおくりぶね)が見える。魚河岸に着岸した押送船から軽子(かるこ)たちによって運び出された鮮魚が、桟橋をとおって魚河岸の納屋に運び込まれ、その反対側には、仲買が板船(いたぶね)の上に鮮魚を並べて販売している様子が見てとれる。また、町々の木戸や梯子の立つ自身番の様子も丁寧に描き込まれており、興味深い。(江戸東京博物館「大江戸八百八町」)
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