玉川庄右衛門・清右衛門兄弟の像
(羽村公園、昭和33年建立、松野伍秀作)
立って指さしているのが兄の庄右衛門、座って測量用の杖尺をもつのが弟の清右衛門。 上水記によれば、「玉川庄右衛門、清右衛門といえるもの両人の父、所々相求むる所に武州羽村といえる所より玉川水を江戸まで道のり十三里の所、水盛り相考える」とあり、父が立案したように書かれています。銅像の碑文には「兄弟は羽村に縁があるひと」とあり、この辺りの地理に明るい人だったと思われます。
 

都市水道網の建設―神田上水と玉川上水
 初期の江戸市街は、山の手を除くと埋立地ばかりで、井戸を掘ると海水が出て良質の水は得られませんでした。そこで、土地の造成とならんで上水の開削が進められました。
 家康の江戸入りと同時にその方面の専門家で三河譜代・大久保藤五郎忠行が呼び寄せられ計画立案にあたり、忠行は最初、小石川に水源を求め神田に通水する小石川上水を敷き、それを拡張して神田上水としました(別説もありますが)。神田上水は井の頭池の湧水を水源として、善福寺池と妙正寺池の水を併せ、寛政6年(1629)ごろ完成して江戸の東北部方面に通水しました(俳聖松尾芭蕉が工事関係者として参加したという伝承があります)。
 井の頭から水道橋までは水路を掘り、のちに神田川に掛樋を架けて以遠の江戸城郭内や武家方・町方への配水は暗渠とし木樋で市中に給水されました。利用者負担の水道料は水銀とよばれ武家からは石高割で町方からは屋敷間口割で徴収し、水番人の給料や維持管理費用に当てられました。もとは「タダの水」に金を払うことは、江戸っ子のステイタスでした。水利用については、水銀のような利用者負担と茅年貢のような受益者負担の双方がありました。

玉川上水の取水堰のあたり 
多摩川の流れは取水堰のあたりでS字形に蛇行し、水流が左岸の羽村の岸に直角にぶつかるところで取水されました。取水口には蛇かごや枠を設けられて水がせき止められ、上水路に導かれました。ここから四谷大木戸までの高低差は92メートル、約43キロメートルの水路は武蔵野台地の馬の背(りょう線部)が選ばれたのでのちに引かれた野火止・青山・三田・千川の分水に有効でした。
玉川上水水神社と水陣屋門
玉川上取水堰の道路向かいにあります。水陣屋とは、玉川上水を管理する幕府役人の詰所です。現在、その門が残っています。
玉川上水記念碑と水番所跡
新宿区四谷4丁目の交差点の中央が四谷大木戸のあったところです。間口2間半(約4.5m)の木戸があり、石垣が築かれていました。道路の傍らに、玉川上水記念碑とそのすぐ近くに水番所跡があります。羽村から開渠でここまできた水路は、水番所で水量が調節されて暗渠の樋に導かれました。玉川上水記念碑は玉川上水の石樋を利用したものです。
玉川庄右衛門・清右衛門兄弟の墓
(台東区松が谷2-3-3 聖徳寺)
墓所の傍らに水道関係者による石碑があります。
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