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このとき、2万石以上の全国の大名70家余に対して「禄高千石について一人の役夫を提供せよ」という指令が出されましたが、大名たちは幕府の関心を惹くために競い合って役夫を多めに出しました。「慶長見聞集」にはこのときの模様が「慶長八卯の年、日本六十余州の人、歩をよせ、神田山をひきくずし、南方の海を四方三十余町うめさせ、陸地となし、その上に在家をたち給ふ」と書かれています。 この結果、浜町辺りから南へ京橋、新橋辺りまでに至る市街地が造成され、一国の役夫だけで完成した地域は、尾張町・出雲町・加賀町というように町名がつけられました。新市街地は碁盤の目のように整然と区画されました。東海道もこれらの町地を通過するように敷かれ、慶長8年に架せられた日本橋が諸国への街道の起点とされました。これは慶長11年から始まる江戸城の拡張工事の先駆けといえるもので、城周辺の町々が新市街地に移され、江戸の中心の町となりました。 慶長17年には西国の諸大名に命じて南八町(丁)堀、三十間堀の船が出入りできる掘割がされます。慶長年間の江戸についてスペイン人ドン・ロドリゴは大要つぎのように記しました。「この市は住民15万人を有し、海水その岸を打ち、また市の中央に水多き川流れ、相当なる大きさの船この川に入る。ただし水深からざるが故に帆船入ることを得ず、この川は分岐して多くの市街を通過し、食糧の大部分はこれによりて容易にきたり(略)。市街は互いに優劣なく、皆一様に幅広く又長くして直なることスペインの市街に勝れり。家は木造にして2階建なるものあり(略)。又道路は清潔にして、何人もこれを踏まずと思わるる程なり」(「ドン・ロドリゴ日本見聞録」)。 |
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大久保忠行の墓 谷中の瑞輪寺に忠行(主水)の墓があります。小石川上水の功で忠行には茶釜と名馬と「主水」という名前が与えられ、水は濁りを嫌うから「モンドではなくモントと言うように」といわれたと伝えられています。忠行は菓子が好きで、のちに将軍家御用の御菓子師、御賄頭指南となりました。 |
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