高崎屋    


創業は、宝暦年間(1751〜64)(詳細不明)。中仙道と日光御成道(岩槻街道)が分岐する本郷追分に店を構え、酒・醤油を商った。
当時、本郷から湯島にかけて糀(こうじ)屋が百軒近くあり、街道沿いに酒、味噌、醤油問屋が集中しており、高崎屋は、こうした食品問屋の中でも大だなとして知られた。
長谷川雪旦・雪提による『高崎屋絵図』には、広大な屋敷、庭など当時の高崎屋の繁栄ぶりが鮮やかな色彩で俯瞰的に描かれている。二世牛長(四代目当主長右衛門)によると、天保の改革の取り締まりで家屋敷を縮小することになり、記録としてこの絵を描いたらしい。
現在は、10代目・渡辺泰司氏が老舗の看板を守る。東京大学の前ということで、学生客も多く、共同輸入組織「吟奏の会」による各種ワイン、同会特選日本酒やベルギー産など輸入ビールも豊富にそろっている。

   
  現在の高崎屋
(東大農学部前)
 
     
高崎屋絵図
長谷川雪旦・雪提筆
天保13年(1842)製作
(『文京区史 巻二』 昭和43年より
 
 
 

本郷・東大キャンパスに残る江戸の面影

 現在、大名屋敷の遺構は東京にひとつもありません。わずかに表門が二つ残るだけです。東大の赤門と上野公園の鳥取藩池田家上屋敷の表門(上野公園にある東京国立博物館正門の並びにあります)です
 文京区本郷の東京大学は、その広大なキャンパスの地下に、江戸(加賀藩上屋敷跡および富山藩上屋敷跡・大聖寺藩上屋敷跡・水戸藩中屋敷跡・高田藩中屋敷跡・安志藩邸跡など)がいまも眠っていて、その発掘調査が話題を呼び、報告書としてまとめられました。
 加賀藩上屋敷は、将軍御成のための御殿の建築、徳川家から溶姫(やすひめ 11代将軍家斉の娘)が嫁いだときにつくられた赤門(御守殿門)、溶姫御殿、三四郎池(心字池)や当時としては珍しい町民への一般公開など、話題にことかきません。
 なお享保15年(1730)、加賀藩江戸本郷屋敷の再建工事に、商人と棟梁がともに参加したことは注目されます。入札の結果、中心部の主要建物は和泉屋五郎兵衛、富田屋六兵衛などの商人が請負い、棟梁たちは周辺部の小規模な建物群を請負いました(『加賀藩史料六』)。この時期、棟梁たちは、まだ請負工事の主役にはなっていなかったのです

(以下次号)

 

 
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