【シリーズ】世界からつどう−未来への遺産(第10回)/東建月報2007年12月号掲載
▲歩道橋上から見た駒沢通り

2016年のオリンピック開催都市として国をあげて取り組んでいる東京。メイン会場としては湾岸部の晴海地区が予定されているが、既存施設を利用しての効率的な運営をモットーとしており、1964年に開催された東京オリンピックの会場であった神宮外苑の国立競技場、代々木体育館などの再利用が組み込まれている。
近年のIOCの開催都市選定では、大会後の施設の活用度なども大きな評価基準になっている。実際、1964年の東京オリンピックで建設された施設は、その後、改修などを経ながらも40年以上のあいだ大いに活用されてきた。また、オリンピックを契機につくられた公園、道路などもその後の都市東京の発展に大きく貢献している。今回は、第二会場であった駒沢公園の例を見ながら、オリンピック後の会場、施設のあり方を検証してみた。

1940年、1964年の駒沢


▲駒沢ゴルフ場−昭和10年当時:提供 世田谷区郷土資料館


▲東映フライヤーズ−昭和28年当時:提供 世田谷区郷土資料館


▲管制塔

1964年の東京オリンピックでは、第一会場が国立競技場を中心とする明治公園地区、第二会場が駒沢地区とされた。

駒沢地区は1940年に東京で行われるはずであった第12回オリンピック会場として予定されていた場所である。この一帯は、大正時代には農地であったが、駒沢ゴルフ場となり、戦時色が濃くなってきた42年には全地域が防空緑地に指定された。翌年東京都が同地を買収。戦中戦後には食糧生産のための農耕地となり、戦後は国有地に。48年、駒沢緑地総合運動場の設置が都議会で内定し、その後国体会場などにも使用され、ハンドボール場、ソフトボール場、硬式野球場、バレーボール場、弓道場などが設置され、都民がスポーツを楽しめる場となっていた。53年には東急電鉄により駒沢球場が寄付され、「駒沢の暴れん坊」の異名を持つプロ野球の東映フライヤーズの本拠地にもなった。

昭和15年(1940年)の時点で、なぜ駒沢という地がオリンピックの会場に選ばれたのか。ちょうど駒沢ゴルフ場が朝霞に移転し、まとまった用地があったこと。そして、神宮地区をメイン会場にする案があったが、代々木の練兵場をつぶすのに軍部の反対があり、神宮に近すぎるなどの理由で、結局駒沢に会場が計画されることになった。メイン会場、水泳場、選手村などのかなり具体的な計画が行われたが、1937年満州事変が勃発したことがきっかけとなり、日本でのこのオリンピックの開催は翌年、38年に中止が決定した。

第二次世界大戦の敗戦後、復興著しい日本で初めてのオリンピックが実現することになる。決定したのは、59年ミュンヘンでのIOC総会でのことであった。駒沢は第二会場となることが決まり、ここでバレーボール、サッカー、ホッケー、レスリングの四種目が行われることになった。

高山英華早大教授を中心とした施設特別委員会は、駒沢会場の総合計画を検討。公園内の貫通道路(駒沢通り)が人と車を分ける立体交差となり、中央には広場があり、その両側に体育館と競技場があるという、ダイナミックな構成の会場となった。体育館は芦原義信、競技場は村田政真による設計。その両者の共同により、中央広場まわりの基本設計がなされた。広場中央には、芦原義信による管制塔と聖火台が置かれ、五重塔をイメージさせる管制塔の内部には電気、電話、給水、放送関連の設備機能が集中し、同時にオリンピック記念塔としての象徴的な意味合いも持つ。また、体育館の、支柱のない曲面の構造を持つ造形は、法隆寺の夢殿を連想させ、「伝統文化」と「現代建築」の融合を連想させると言わせた。


駒沢オリンピック公園の開園


▲東急玉川線(通称:玉電)−昭和36年当時:提供 世田谷区郷土資料館


▲路線バス−昭和36年当時:提供 世田谷区郷土資料館

64年10月の東京オリンピックが終了した後の駒沢会場はどうなったか。その年12月には、東京都立駒沢オリンピック公園として開園する。まずは、女子バレーボールの「東洋の魔女」たちが金メダルを勝ち取った場所を見ようと、日本国中から一日平均一万人以上の観光客が訪れる観光名所になった。雑誌や映画などの撮影場所としても多く利用された。このように「駒沢」の土地ブランド性が高められたのは、オリンピック大会が行われただけでなく、バレーボール、レスリングなどの競技で日本人選手が活躍し、多くのメダルを獲得した伝説の地となったからでもある。

オリンピック後、公園内には、順次、軟式・硬式野球場、プール、サイクリングコースなどが整備されていった。各種スポーツ教室が開催されるほか、各施設は一般に公開貸し出しされ、都民が気軽にスポーツに親しめる場所となった。

64年のオリンピック当時、駒沢公園への交通アクセスは、渋谷-二子玉川園をつなぐ路面電車である東急玉川線、通称玉電と、路線バスのみであった。その後玉電は69年に廃止され、地下鉄の東急新玉川線と首都高速3号渋谷線の建設が始まり、その間は代替バスが補った。同時施工と

交通状態の激しい玉川通りにおいて、新玉川線の地下鉄工事と高速道路の橋脚を施工することは、短期間で同時に建設されるという大変画期的な工事であった。新玉川線の渋谷-二子玉川間が開通したのは77年、半蔵門線との直通運転を開始したのは78年のこと。これにより、玉川通りの交通は、渋谷、青山、そして大手町と直結する地下鉄開通とともに格段に利便性が増し、二子玉川以西の田園都市線沿線の住宅地のブランド性をも押し上げた。

現在、新玉川線の朝のラッシュ時の混雑率は首都圏有数と言われる。東京オリンピックを契機に開発された新玉川線・田園都市線沿線の住宅地は、イメージのよさと便利さで今も多くの人の憧れの地となっている。


オリンピックから約30年後、体育館の大改修


▲体育館


▲体育館にて行われたオリンピックフェスティバル開会式


▲ドッグラン

93年、完成から約30年を経て駒沢オリンピック公園の体育館の大改修が行われた。この工事では、体育館の規模が1.7倍に広げられ、観客席数も2898席から3474席に増え、メモリアルギャラリーなどが設けられた。

大改修が行われるにあたっては、新しい体育館を建てるという案もあったが、調査を行ったところ、構造は使用に十分耐えることがわかり、躯体を残しての全面改修が行われることになった。新設ではなく改修を選択した理由には、オリンピックのレスリング競技で日本人が5個金メダルを獲得した場所であるメモリアル性、そして日本建築学会特別賞を受賞した作品であることも大きく影響したと考えられる。

国際的な大会にもたびたび利用される代々木体育館や国立競技場に比して、駒沢は、67年にユニバーシアード東京大会の会場になったほかは、大きな国際大会には利用されていない。むしろ一般の都民スポーツ愛好者に広く親しまれている存在として定着している。

東京オリンピックから43年後の今、駒沢公園を訪ねてみると、大きく育ったケヤキ、イチョウなどの樹木の間を、犬の散歩やジョギング、ウォーキングなどに興じる人びとが多数行き来する風景が見られる。スケートボード用のフィールド、ドッグランなどの設備も設けられ、広場の周辺では、和太鼓、スチールドラムなどの練習をする人たちもいて、野外ライブの場ともなっている。これは同じオリンピック会場であった代々木公園とも共通する風景だ。公園周辺にはカフェやショップなどもあって、世田谷のなかでも特独のテイストを持つおしゃれな界隈になっていると言えよう。隣接する深沢地区は区内でも有数の高級住宅街で大きな区画のお屋敷街が続いている。

代々木、千駄ヶ谷の競技施設は、オリンピック以後の渋谷青山地区の発展に寄与し、駒沢競技場の存在は世田谷、新玉川線沿線の価値を高めることに大きく貢献した。

2016年オリンピックの、当初誘致計画案では、駒沢の施設はバレーボールとハンドボールの会場として予定されていたが、その後、メイン会場の晴海地区から半径8キロ以内に全競技施設を収めるように計画が変更されたため、会場案からははずされている。

今回の会場計画では、神宮代々木地区の施設、有楽町の東京国際フォーラムやビッグエッグなど都心の既存施設をはじめ、晴海のメインスタジアムのほか、お台場・若洲・有明・葛西など湾岸地区で構成されている。これらの地区は、70年代以降に順次埋め立てが進み、今日では東京湾岸ウォーターフロンと呼ばれ、開発が進められてきたところだ。これらの地域が、オリンピックという神話により一段と飛躍する、その成長過程をみたいものである。


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