【シリーズ】世界からつどう−未来への遺産(第6回)/東建月報2007年6月号掲載
▲長野オリンピック開会式の様子

冬季オリンピックは、夏季オリンピックとは異なり、開催にあたってまったく別の条件を求められる大会だ。寒冷地なら無条件に良いというわけではなく、屋外競技に適した雪質が求められるし、スキーやボブスレーなどの屋外競技と、スケートやアイスホッケーなどの屋内競技の両方が行われるため、ゲレンデや競技コースの設けられる山間部と、交通至便で報道センターや選手村などを置きやすい都市部に会場が分かれることになる。
実際、冬季大会の課題は、会場への選手、報道陣、観客の輸送や、除雪、悪天候による競技日程の順延などにあることが多い。
歴代の冬季オリンピック大会の開催都市を見てみると、フランスのシャモニー、スイスのサンモリッツなど国際的に有名なスキー場を擁するような土地で開かれており、そのなかに日本の札幌(1972年)、長野(1998年)が名前を連ねていることは、若干驚くべきことのような気がする。
アメリカのレークプラシッド、オーストリアのインスブルックなどでは複数回のオリンピックが開催されている。やはり夏季大会よりは、気候的に条件がむずかしい点があるために開催できる都市も限られてくるようだ。しかし、ひとたびオリンピックがその都市で開かれ、会場の整備が行われれば、その後もスキー、スケートなどのウインタースポーツの大会開催地として世界中にその都市がアピールされる場となる。

日本初の冬季オリンピック"SAPPORO"


▲長野・エムウェーブ


▲長野・南長野運動公園(開閉式会場)


▲長野・白馬ジャンプ競技場


▲長野・ホワイトリング


▲長野・ビッグハット


▲長野・五輪大橋

1972年の札幌オリンピックの開催は1966年に決定された。1964年の夏季東京大会と同様に、戦前の1940年に開催が計画されていが、第二次大戦のため中止された経緯を考慮して、開催地として指名された。
このオリンピックに際して、札幌とその近郊に14の競技施設が新設された。開会式、閉会式が行われたスケート場、オリンピック村、プレスセンター事務局などは札幌市内の真駒内、西岡地区に置かれ、選手村であるオリンピック村には、札幌市近郊の北海道警察学校跡地に日本住宅公団が建設した真駒内団地の賃貸、分譲住宅が充てられた。1971年12月には高速電車が開通し、この団地は都市部と約15分で結ばれるようになった。
ゲレンデが必要であるスキー競技のためには、市内から若干離れた手稲山、大倉山、宮の森地域に会場が設営された。
スキーのメイン会場とも言える場所が手稲山に置かれたのは、このオリンピックを機に、札幌市内から日帰り可能なこの地に、難易多彩なゲレンデと輸送施設が充実したスキー場を設営しようとした意図が働いた結果だった。この手稲山にはリュージュ、ボブスレーのコースも設営され、なかでもボブスレー競技場は、わが国で初めて建設された正式なコース場であった。
スキー男女の滑降コースが造営されたのは、手稲山とは別方向、札幌市の南35キロに位置する恵庭岳であった。これは支笏洞爺国立公園内に位置するため、コース造成に伴い国有林の伐採、地形の原形変更が問題となった。しかし、札幌近郊で滑降競技場の条件を満たす山は恵庭岳しかないという事情のため、一切の施設を大会後直ちに撤去し復元するという条件で、ここに滑降競技場が設置されることになった。
日本の選手が金銀銅メダルを受賞し大いに注目を集めたスキージャンプ競技の会場は大倉山、宮の森地区に造られた。大倉山会場は1931年にできた歴史ある旧大倉山シャンツェに改造を加えたものだ。寄贈者である大倉喜七郎男爵の名を記念して命名されたこの競技場は、日本のジャンプ名選手を生んだ歴史的な場であるが、「大倉の嵐」と呼ばれる斜面下方から横なぐりに巻き上げる独特の風が絶えず、特に外国人選手には恐れられていた。その「嵐」の解消と観客席の確保のために改造工事が行われたが、移動させた土量24万立方メートル、盛り土量20万立方メートル、その最大高さ30メートル、そして岩盤掘削を伴う、新設同様の大工事となった。
競技場とあわせて、これらをつなぐ道路の整備も必要であった。合計20路線、総延長58キロの道路が造られ、主会場である真駒内と札幌都心を結ぶ地下鉄南北線12キロもオリンピック開催に間に合うように建設された。ゴムタイヤの車両の地下鉄は走行時の音が静かな、全国でもめずらしいものとして知られている。また、この地下鉄建設が契機となって地下街が整備され、冬の札幌の街並みは大きく変貌した。



長野オリンピックのキーワードは環境と平和。

札幌オリンピックから26年後の1998年、再び日本の地で冬季オリンピックが開催されることになった。それまでウインタースポーツの場として世界的にはまったく無名だった長野がオリンピック開催地に選ばれたのは、1991年、英国バーミンガムでのことだった。
IOCがアジア東部に最高レベルの冬季スポーツ拠点を設置したいという意向を持ち、長野開催を支持した結果だった。それを受けて、長野ではオリンピックに向けて、14会場のうち、8会場が最新の設備で建設された。
このオリンピックで重要視されたのは、26年前の札幌大会の時にはまだ今日ほど意識されていなかった「環境」という問題だった。スポーツ施設の開発と自然の保護再生を両立させることが大会実現運営の必須条件となった。
長野大会では、スキー滑降競技の距離を伸ばしスタート地点をより高くという要望に対して、その地点が立ち入り禁止の国有林であることから、環境保護団体とのすり合わせが幾度となく行われたほか、フィニッシュエリア一帯の雑木林ではキバナイカリソウを移植、イワナやサンショウウオを捕獲して上流へ放すということが行われた。
当初は白馬村に設定されていたバイアスロンのコースはオオタカなどの猛禽類の巣が確認されたために野沢温泉に変更された。
また、高度な技術によるリンク整備が必要なスピードスケートやフィギュアスケート、アイスホッケーなどには、オゾン層の破壊や地球温暖化につながらない冷却アンモニア方式が採用された。
新設された会場はすべて大会後の用途があらかじめ設定され、ウインタースポーツ以外にも夏季における用途も決められていた。
メイン会場となった長野は善光寺の門前町。開会式と閉会式は長野市に建設中だった南長野運動公園の多目的競技場をオリンピックスタジアムとして整備。スケートやアイスホッケーの会場としても使用された。ここは現在も毎年行われている「長野オリンピック記念長野マラソン」のゴール地点としても使用されている。
新設されたスピードスケートリンクは、「エムウェーブ」の愛称を持ち、屋内リンクは、一周400メートルダブルトラックで国内初最大級のもの。信州産のカラマツ集成材を使った、大規模なつり屋根構造の建物となった。
フィギュアスケートとアイススケートショートトラックの会場となった「ホワイトリング」は善光寺平にきらめく水玉をイメージした高さ39.7メートルのドーム建築。屋根を組み立ててから持ち上げるリフトアップ工法が採用された。大会後は総合的な体育館として利用できるように計画された。アイスホッケー会場の「ビッグハット」「アクアウイング」も、スポーツやイベントに使用できる多目的ホール、屋内プールとしての利用が前提とされて計画された。
これら室内でのスケートリンク競技には、熟練したリンクづくりの技術が必要とされる。また観客入場後のアリーナ内の温度によりリンクのコンディションが変わってくることから、大会前には入念なデータとノウハウが蓄積された。
スキー競技の会場となったのは白馬村、スノーボードやアルペン競技の会場は志賀高原となった。白馬村に造られたジャンプ競技場は、K点が90メートルのノーマルヒルと、120メートルのラージヒルのジャンプ台が二つ並ぶという世界中でもめずらしい構造。スタートタワー、専用リフト、ライブハウス、人工降雪設備を備えた最新鋭のもので、1年中使用が可能。大会中も夜間ライトアップされ、このオリンピックのランドマークとなった。
長野市北部の浅川に造られた総延長1700メートルに15のカーブが連続するボブスレー、リュージュのコースは、札幌オリンピック以降、国内ではほとんどコース造成が行われていなかったので、ドイツからアイスマイスターが来日しコース設営に協力した。また、この長野大会ではスノーボード、カーリング、女子アイスホッケーが初種目として採り入れられ、それぞれの会場がにぎわった。
長野でも他の例にもれず、オリンピック道路や高速道路、地下鉄や鉄道などのインフラが整備された。なかでも長野新幹線「あさま」がオリンピック開幕4カ月前に開業し、東京-長野間が今までの半分ほどの79分で結ばれるようになった。
近年のオリンピックは莫大な放送権料を収入源としているが、そのテレビ中継などのための国際放送センター(IBC)とメインプレスセンターは長野駅にほど近いところに設けられ、ここから世界中に日々の熱い戦いが発信されていった。オリンピック村は、長野市中心部から南へ7キロほどの場所に位置する川中島町今井に長野市が建設した今井ニュータウンを借り上げて整備した。面積19ヘクタール、建物23棟、1032戸という大規模なものだった。

これら二つの日本で行われた冬季大会を、1964年の東京の夏季オリンピックの例と比べてみると、なかなか興味深い。東京という日本の首都であるメガシティと、寒冷地である地方都市の違い。それにも増して、冬季大会と夏季大会の如実な違いは、夏季大会ほどの経済効果が冬季大会には望めない、大会後の施設の有効利用がむずかしいなどの問題がある点だ。環境に対する負荷を少なくしようという姿勢も年々厳しくなり、特にスキー滑降やクロスカントリーなど山間部で行われる競技コースの整備もままならない。
冬季に比べて1年中活用できるのが、夏季オリンピック開催に伴う会場や都市整備である。2016年のオリンピック開催地として、東京の都市を美しく整備しようという気運が盛り上がっているのも、これらの事情が作用してのことにほかならない。
1964年の東京オリンピックで整備された、国立競技場や駒沢競技場をはじめ、首都高速、オリンピック道路などは、40年以上を経ても未だ東京の骨格となるインフラとして機能している。東京が誘致を目指している9年後のオリンピックがどうなるかはまだ未知数だが、この都市を大きく変革する国民的行事に向けてのさまざまな動きが期待されている。


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