【シリーズ】世界からつどう−未来への遺産(第5回)/東建月報2007年5月号掲載
▲パレスホテル

昭和39年(1964)のオリンピック東京大会に向けて、東京に国際的な基準のホテルがオープンし始めたのは、昭和37年頃からのことだった。
第18回オリンピックの開催地が東京に決定したのは、昭和34年、ミュンヘンで開催された国際オリンピック委員会においてである。それ以後、昭和35年から37年にかけて、ホテル旅館業が日本長期信用銀行、世界銀行などから受けた融資総額は479億1300万円にのぼり、この時期、東京中、日本中にオリンピックに向けての宿泊施設が建設されていく。昭和35年にホテルニュージャパン、銀座東急ホテル、昭和36年にパレスホテル、昭和37年にホテルオークラ、昭和38年に東京ヒルトンホテル、昭和39年にホテル高輪、東京プリンスホテル、ホテルニューオータニ、羽田東急ホテルが開業といった具合に、国際的に通用するシティホテルが次々にオープンしていった。

グローバルスタンダードなホテルの時代

昭和30年代なかばに東京にできたこれらホテルは、従来のものとはまったく別の規模やレベルのものを目指していた。いずれも、広々としたロビー、いくつものレストランやバー、3000人以上収容の大ホールなどを備え、明らかに従来の規模・仕様から脱却した施設になっていた。この時代、日本の高度経済成長とビジネス社会の膨張のため、国際的で大きな会議、行事、イベントなどを開くことができる場が必要とされていたからだ。
それまでの外国人の泊まれる東京のホテルというと帝国ホテルと横浜のホテルニューグランドぐらい。そのほかには昭和13年に大衆向けのシティホテルとして新橋駅前にできた第一ホテルや、戦後の占領下にバイヤー専用のホテルとしてできた、現在のパレスホテルの前身のホテルテートといったあたりしかなかった。
しかし、高度経済成長が始まり、オリンピック開催も決まった昭和30年代なかば以降の東京のホテルには、コンベンションの場となる大ホールや、500室を超す客室を持つ大規模なものが出現しだした。特に昭和39年9月、東京オリンピック直前にオープンしたホテルニューオータニは客室数1085室の威容を誇り、これを基準に都内一流大型ホテルの拡大目標はとりあえず1000室いうことになった。
パレスホテル、ホテルオークラ、ホテルニューオータニなど、この時代につくられたホテルは、バスルームやベッドなどの客室の設備や広さ、和洋の複数のレストランやバー、ルームサービスやコンシェルジュなどのサービスのソフト面に至るまでグローバル・スタンダードなものを目指していた。
またこの時期、東京ヒルトンホテルなどの外資系ホテルの参入、東急、西武、阪急など鉄道会社の参入という現象が見られ、東京に居並ぶホテルの持ち味や特徴もバラエティ豊かなものになっていった。
東京オリンピックを契機として日本への外国人旅行者の数は急激に増加する。パレスホテルの昭和39年の宿泊客数の内訳を見ると、外国人客の割合は全体の67パーセント、そのうち70パーセント前後がアメリカ人であった。これら外国人旅行者の数は、昭和45年の大阪での万国博覧会まで上昇し続けた。
産業経済の拡大とともに日本人の暮らしは豊かになり、ホテルという場に対する需要も一気に増していったのだった。



ホテル不足のために講じられた宿泊手段


▲ホテルオークラ


▲東京プリンスホテル


▲東京オリンピック記念宿舎


▲オリンピック記念青少年総合センター

このように多くの最先端の都市ホテルが東京に建設されながらも、オリンピックに向けての観光客の宿泊施設のベッド数は圧倒的に不足していた。
そこで、日本旅館にベッドを入れた改造旅館や大学の学生寮、教会、お寺の宿坊などの施設が海外からのオリンピック観覧者のために用意された。また、都内の個人宅に外国人が泊まれるよう「民泊」という制度を導入した。596家庭、1500ベッドが登録、そのうち約25パーセントが利用されたという。その他、東京港に停泊させた船に宿泊する船中泊も用意された。
このようにホテル以外にも、あらゆる宿泊形態を用意しようとした姿からは、まだ戦後から立ち直ったばかりの日本が、なんとかオリンピックを成功させようという涙ぐましいばかりの努力が浮かび上がってくる。


代々木のオリンピック選手村

オリンピックにおいて、選手や役員が滞在する選手村というのも重要な施設であった。競技会場へのスムースな移動、練習や食事などの便が必要条件であるため、東京大会の選手村は、メインスタジアムとなった神宮外苑の国立競技場や、代々木体育館にほど近い、現在の代々木公園にあたる場所に設けられた。ここは大会直前まで、占領軍の宿舎であったワシントンハイツだったため、249棟543戸の木造住宅と鉄筋4階建てのアパート14棟が現存し、それらをそのまま転用して宿舎にあてることができたのだ。
また、宿舎のほかに大食堂2棟が新築された。この2棟はまったく同じ設計で、「富士食堂」と「桜食堂」と名づけられ、1棟が各6区画に分けられていて、計12区画の世界中の趣味習慣に合わせたメニューが用意された。それでも、食堂1棟の収容人数は1000人で、食事には三交代制が敷かれた。調理場のスタッフには帝国ホテルやホテルオークラから人材が派遣され、日本の料理人の腕を披露すると同時に技を磨く場にもなった。
この選手村食堂を設計したのは菊竹清訓。オリンピック終了後は直ちに解体されることが決まっていたため、当初はテント構造の建物が計画されたが、オリンピック組織委員会の反対で中止されたという。また、選手村のメインゲートとしてランドマーク性あふれるパイプの装飾のある構造物を設計したのは清家清だった。清家清、菊竹清訓といった丹下健三の世代に続くこの時代の若手俊英も、大会施設の設計者として活躍したわけだ。
代々木以外にも、自転車競技のために八王子、馬術競技のために軽井沢、ヨット競技のために大磯、カヌー競技のために相模湖に選手村が設けられた。それらは後に大磯ロングビーチホテルや、軽井沢の晴山ホテル、そしてユースホステルなどに転用されている。
現在、代々木選手村だった地域の大部分は代々木公園となっているが、小田急線参宮橋駅近くの一画は、オリンピック記念青少年総合センターとなっている。これらは、選手村の鉄筋の建物が生まれ変わったもので、約1500床の宿泊施設のほかスポーツ棟やカルチャー棟などを擁する青少年向けの研修施設となった。平成3年以降順次施設が建て替えられ、現在は昭和30年代の面影はまったくないポストモダン風な建物が並んでいる。
代々木公園内には現在も、木造の選手村宿舎が1棟だけ保存されている。公園の原宿門から入って右手に歩いていくと、木立のなかに白いペンキ塗りの木造の建物がぽつんと建っている。その素朴な佇まいは昭和39年という時代の息吹を今も保ち続け、この代々木公園・神宮地区一帯が東京オリンピックという一大国家イベントとともに発展してきたことの記念碑となっているようだ。
また神宮外苑にほど近い神宮前二丁目には世界各国の報道記者たちのための宿泊施設としてプレスマンハウスが建設された。この洒落た建物は大会後、外苑ハウスという高級アパートになり、現存し続けている。



オリンピック時にオープンしたホテルのその後


▲ホテルニューオータニ


▲ホテルニューオータニ庭園

東京オリンピックを頂点としたホテルのオープンラッシュは、第一次ホテルブームと言われている。これ以後日本の経済成長はますます進み、これによってホテルが大衆化し、昭和45年の大阪万博が契機となる第二次ホテルブームへとつながっていった。 
昭和30年代後半にできた今や老舗のホテルも、その後に、別館や新館の建設や改装を続け、あるところでは開業以来の雰囲気やサービスの伝統を保ちながら、あるところでは改装された新しい客室や、時代にマッチしたサービスを取り入れながら、盛業中である。ホテルニューオータニは昭和49年に新館を、平成3年にガーデンコートを開業し、現在は計1533室のさらなる巨大ホテルとなっている。ホテルオークラは別館を昭和48年に開業。最近も客室やレストランの大規模リニューアルが行われている。これら第一次ホテルブーム組は、オープン時のコンセプトがグローバルスタンダードだったために、40年後の現在も、東京を代表するホテルとしての格を保っているのである。
しかしその一方で、昭和57年の火災で廃業したホテルニュージャパンや、平成13年閉館して今は時事通信社に建て替わっている銀座東急ホテルなど、今はなくなってしまったホテルも多い。
この数年、東京には大規模再開発が相次ぎその中に必ず組み込まれるのはホテルである。特に外資系ラグジュアリーホテルの進出は著しく、今年3月には六本木にリッツカールトンホテルが開業し、10月には日比谷にペニンシュラホテルができる予定。それに対抗して帝国ホテルも全館リニューアル、東京プリンスは新館ザ・プリンス・パークタワー東京を昨年オープンするなど、東京のホテル業界は動きが激しい。
そしてまた現在、東京駅八重洲口には外資系シャングリラホテルが入居する超高層ビルを建設中、丸の内側には東京駅赤レンガ駅舎の復元とともに東京ステーションホテルが復活する予定。昨年閉館した永田町のキャピトル東急ホテル(旧東京ヒルトンホテル)跡には、パリのオテル・ド・クリヨンができるという噂もある。
しかしビジネス、観光ともに東京にホテルの需要はまだまだあるという説が有力。2016年の東京オリンピック開催を射程に入れたホテルプロジェクトが、今後もひきもきらないだろう。


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