【シリーズ】世界からつどう−未来への遺産(第3回)/東建月報2007年3月号掲載
▲国立霞ヶ丘競技場(国立競技場)


▲駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場


▲馬事公苑・メインアリーナ


▲国立代々木競技場

オリンピックは世界最大のスポーツの祭典。開催都市の姿は激変する。近年を見ても、ソウル、アテネなどがその好例である。オリンピックの開催または誘致という目的は、人々の意識を変え、道路や鉄道などのインフラ整備、競技場や設備の建設といった、都市計画を大きく押し進める契機となる。そんな歴史のなかで見ていくと、1964年(昭和39)の東京オリンピックも、東京にまさに大きな変革をもたらした。それは、この都市に暮らすわれわれにとって未だもって体感されることだ。
今号からは、1964年に開催された東京オリンピックを振り返ってみたい。


神宮と駒沢に定められたメイン会場

1964年の東京オリンピックの会場は、明治神宮に隣接する代々木公園、神宮外苑、そして駒沢公園を中心に計画された。
それよりさかのぼること24年前、太平洋戦争前である1940年(昭和15)に東京で開催が計画されていた第12回オリンピック大会のメイン会場には、駒沢が想定されていた。皇紀2,600年の記念行事とも位置づけられたこのオリンピックは、当初、明治神宮外苑を会場にしようと考えられていたが、10万人を超える来場者に対応するには、会場規模が足りないことが予想された。当時、駒沢にあったゴルフリンクが、震災復興による宅地化のあおりを受けて朝霞に移転したばかりで、広大な跡地がそこにあった。それが会場決定に大きく作用したのだ。
第12回オリンピックは、開催予定の4年前である1936年に東京での開催が決定していたが、結局、日中戦争の激化を理由に開催を辞退することになった。会場の建設は始まっていなかったが、それまでにかなり具体的になっていた駒沢会場案が、後の1964年のオリンピックの会場としても活かされた。この戦前の計画時の施設のうち残されたのは、世田谷の馬事公苑と埼玉県戸田の漕艇場の2ヵ所である。
一方の都心のメイン会場であった代々木公園は、当時の戦前育ちの人たちにとっては代々木練兵場として記憶されていた場所だった。戦後、米軍の家族用宿舎ワシントンハイツとなっていた代々木地区であるが、オリンピック招致決定後、この地区が都心における会場として有力視されるようになっていった。
この1964年の東京オリンピックで一番問題となったのは、東京という大都市の内部に、新たにオリンピック会場を作るような空き地がないことであった。この大会でも水泳会場の設置が問題になり、当初4万人収容の競技場が計画されて、用地としては数ヘクタールの土地が必要という試算がされた。しかし、当時の都内にその規模の土地は、神宮外苑の一部、皇居北の丸、ワシントンハイツ、新宿御苑、新宿副都心、駒沢公園しかなかった。
そして、新しく造られる会場として特に重要視されたのが水泳場なのであった。戦前から水泳競技に強かった日本にとって、オリンピックの水泳競技場は非常に重要な施設と目されていたのだ。
昭和30年代前半、都内の利便性の高い土地のほとんどは米軍に接収されていた。オリンピック会場の候補地となっていたワシントンハイツは、1959年のオリンピック招致決定後、接収が解除され、この地での開催が実現することになった。以前から返還が交渉されていたが、オリンピック開催が接収解除に大きく作用したと言えよう。
代々木競技場のあのダイナミックな造形の体育館は、用地決定後、起工から18カ月間という驚異的な工事で完成したものであった。この丹下健三設計による代々木競技場は、今日でも日本を代表する傑作建築である。



メインスタジアム国立競技場


▲国立競技場


▲国立競技場・聖火台

そしてもう一つの拠点・神宮外苑地区の中心となるのは、オリンピックのメインスタジアムと位置づけられ、開会式・閉会式が行われた国立競技場である。実は、これはオリンピックのために建設されたものではない。オリンピックの前哨戦とも言える1958年(昭和33)の第8回アジア大会の際に建設されたものであり、このアジア大会の成功により、東京オリンピックが決定した。
オリンピック開催に際して、拡張工事により、アジア大会時の5万2千席から7万5千席に収容人数が増設された。本来は10万席を目標にしていたが、立見席を入れてこれが精一杯の増設だった。ここでは開会式、閉会式のほか陸上競技、サッカー、馬術などの競技が行われた。
オリンピック後40年以上を経た今も、天皇杯サッカー、高校サッカー選手権、ラグビー日本選手権、大学選手権、東京国際マラソン、東京国際女子マラソンなど、全国的に大きなスポーツイベントの会場となっている。竣工から50年近くを経て、トラック、スタンド、電光掲示板などは何度も改修工事を行われているが、相変わらず日本のスポーツ界の檜舞台であることに変わりない。最近はワールドカップサッカーのパブリックビューイングなどの新種のイベントも行われている。
これら、国立競技場を中心とした神宮外苑地区は、東京オリンピック時、明治公園オリンピック競技施設とされ、東京体育館、神宮球場や秩父宮ラグビー場やプレスマンハウスなどが置かれた。そもそも神宮地区にスポーツ施設が置かれたのは、明治神宮に祀られている明治天皇に、「赤子たる青少年が走り攻め守る姿を見せる」ためだという。そのため、戦前から、現在の国立競技場のある地に明治神宮競技場(1924年)が置かれていた。
現在も、この神宮外苑一帯には数々のスポーツ施設が配置され、東京のスポーツのレクリエーションエリアとなっている。



1940年東京オリンピック会場であった駒沢は、再び返り咲く


▲駒沢オリンピック公園総合運動場体育館


▲駒沢オリンピック公園

駒沢公園は、1940年に日本で行われるはずであった、第12回大会のメイン会場、選手村などの建設予定地であった。この、もうひとつのメイン会場とも言える場においても、文化と歴史の融合を念頭においての会場づくりが行われた。敷地もかなり広く、日本ばなれしたダイナミックな計画となった。公園全体の配置計画は、戦後東京の都市計画にも大きな影響力を持った高山英華、そして村田政真、芦原義信、東京都オリンピック施設建設事務所が建築造園の設計監理を担当した。
アジア大会の時も第2会場的な役割を果たし、それまでにバレーボールコートなどが設けられていたが、それを含めて6つの競技場が新たにオリンピック大会のために必要とされていた。そうなると4万人の観客が、この駒沢公園に集中することになる。
一番の問題は輸送であった。当時は渋谷、恵比寿駅方面からのバス輸送、玉川電車の便しかなかった。結局は駒沢公園内にバスセンターが設けられ、そこで観客のほとんどをさばく方法が選ばれた。バスと歩行者の交差を避けるため、車路と歩行者用道路のレベルを違えた立体交差状の街路が計画された。今は当然のようになっているこの仕組みも、当時としては画期的なことであり、このプランが完成するまでは、土木や造園の専門家が何十種もの案を検討した。
オリンピック閉会後のことであるが、玉川線に代わる新玉川線の建設は、首都高速道路の橋脚の基礎と、共同溝とを同時に施工するという前例のない複雑な工事として進められ、新玉川線(現・田園都市線)駒沢大学駅が開業したのは、東京オリンピックから13年後の1977年のことであった。ただでさえ困難な地下鉄工事を開削工法で、いくつもの設備の建設と並行して進め、なおかつ国道246号線上という現場で、1日あたり10万台以上の車両をさばきながらというのは、大変な作業であった。ただ、その結果、地下鉄と首都高速道路を短時間で同時に施工するという工事が実現したのだ。
このようにオリンピックで公園周辺は一斉に整備されたが、渋谷からの玉川通り周辺の道路、高速道路、地下鉄の整備はかなりの時を要した。
駒沢で行われた競技は、サッカー、ホッケー、レスリング、バレーボール。この大会からオリンピック競技になったバレーボールでは、日本女子が大躍進し、この駒沢の体育館で、「東洋の魔女」と呼ばれた日本が金メダルを得て、名実ともに世界一となったことは輝かしい記録である。
そして、駒沢オリンピック公園は、大会後も都民の総合スポーツ施設として広く親しまれている。
オリンピックの時は樹木を植えないドライ方式で整備された広場が印象的だったが、40年以上の年月を経て、園内には樹齢を重ねた木々が繁っている。今も12種類のスポーツ施設を備えているほか、ジョギングやサイクリングを楽しむ場になっており、ドッグランも設けられている。



日本武道館は、皇居北の丸に造られた日本伝統の武道の場


▲日本武道館


▲擬宝珠


▲国立代々木競技場・オリンピックプラザ

九段の日本武道館と言えば、今は武道のための場というより、都心で大きなイベントが行われる場として認識されていることだろう。1985年、爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」(作詞・サンプラザ中野)というヒット曲に歌われ、新たな世代の記憶に刻まれた。
ここは東京オリンピックの柔道会場として1964年に建設されたが、1968年(昭和43)のビートルズ来日公演で外人タレントを中心とする公演会場として使用されるようになり、後に東京ドーム(ビッグエッグ)や東京国際フォーラムにその地位を奪われるまで、ビッグアーティストたちの東京の檜舞台の地位を保っていた。
そもそもサンプラザ中野氏が「大きな玉ねぎ」と歌ったのは、武道館の屋根の中心に鎮座する擬宝珠のこと。通常は寺院などの屋根の突端や橋の欄干などに置かれる装飾だ。柔道がオリンピックの競技となったのも、この東京オリンピックが初めてのことであり、武道館の建物外観も日本武道精神を象徴するようなものとなった。建物の形は奈良法隆寺の夢殿をイメージさせる正八角形で東西南北の方位を明確にしている。外観はもちろんのこと、エントランスやロビーなど随所に日本的な様式が取り入れられている。設計は山田守。席数1万5千席で、皇居の内堀の中の敷地内・北の丸に、このような施設が置かれたことも「戦後」という時代を感じる。



東京オリンピックの遺産 現在

代々木、原宿、千駄ヶ谷、信濃町などの神宮外苑周辺。駒沢公園、そして皇居北の丸の武道館付近は、東京のなかでも広大で色濃い緑地のエリアとなっている。
1964年オリンピック施設計画時の資料を読むと、オリンピック施設と周囲の「森林公園」とのコンビネーションや両者が相俟った景観に、設計者や計画者が心をくだいていることがよくわかる。なかでも旧ワシントンハイツが代々木公園になったことで、都内の公園面積は全体として20パーセント近く上がった。そしてまた新たに造られた首都高速道路からの眺めにも緑地の連なりを生み出した。
旧ワシントンハイツに位置する国立代々木体育館だが、オリンピック後は冬季にはアイススケートリンクとして開放され、プールとスケート場という2つの顔を持つようになった。また、スポーツ以外にも、サーカスや演劇、コンサート、ファッションショーなど、大空間と建築としての完成度の高さを生かす活用のされ方をしている。

実際にオリンピックの大会が行われるのは2週間という短期間のことであるが、そのために1つの都市をこれほどまでに変革し、後世までもその方向性を深く位置づけてしまう。
2016年のオリンピックに向けて、これから東京に水と緑の回廊のある街づくりが行われようとしている。それはまさに、1964年の東京オリンピックから半世紀ぶりの大規模な都市基盤整備となる。オリンピックを機会に東京を訪ねた人々に、東京を美しい街だ、また来ようと思ってもらいたい。
そこに「オリンピック」という目標があることが、都市整備のモチベーションを格段に上げる。2016年の東京には、その後の東京の街づくりにも活かされる、新たな美しい街並みが現れることだろう。


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