桜を植え、愛でてきた、江戸東京の伝統

【シリーズ】つどう(第4回)/東建月報2006年4月号掲載

日本人にとって桜は特別な花。あの薄紅色の花びらがはらはらと散る風景は文学や絵画など古くからさまざまな日本文化で描かれ、心性にも深い影響を与えてきた。
東京で人々がお花見している桜はほとんどが人の手によって植えられたものだ。
千鳥ヶ淵や北の丸公園、外堀などの皇居の周辺。新宿御苑や六義園などの江戸時代の大名庭園の流れを汲む公園。旧きも新しきも、桜を愛でる人びとが造ってきた、都内各所の桜のある風景を見て行こう。


皇居周辺は桜の名所


▲千鳥が淵


▲日本武道館


▲北の丸公園


▲東京国立近代美術館工芸館

桜の季節の皇居、外堀、内堀周辺は多くの人でにぎわう。特に九段上の日本武道館では卒業式入学式が行われることが多く、それが桜の満開と重なると、とても効果的な舞台装置となる。
日本武道館は昭和39年の東京オリンピックの柔道武道競技の会場として建設された。八角形の形状、銅版葺きの大屋根の中心に擬宝珠を据えた建物は日本武道精神を象徴するものにも見える。当時、皇居の内堀の中の敷地にこういった施設を建設するのもかなり思い切った決断だったのではないか。
その後、昭和41年のビートルズ来日公演の会場に使われたことにより、来日外国人、国内タレントの檜舞台としての存在感を増していったが、今やその地位も東京ドームに奪われている。
大学の入学式、卒業式などの会場として使われることも多く、卒業の季節には袴姿の女子大生、入学式には父兄に付き添われたフレッシュマンの姿を多く見かける。
付近には帝冠様式の九段会館や、平成11年にオープンした菊竹清訓設計の昭和館があり、歴史を感じさせる景観が用意されている。

旧江戸城の門や石垣、そして深い水をたたえたお堀を背景に咲く桜は都心において、ひときわ美しく、多くの花見客を集める絶好のお花見ポイントとなっている。桜の季節、この付近の靖国通り、内堀通りなどは毎年車のお花見渋滞が発生するのも仕方のないことか。
千代田区内の桜は明治末頃に当時のイギリス大使アーネスト・サトウが麹町の英国大使館の敷地内に植樹されたものを東京府に寄付したことに始まるという。今も英国大使館前に整然と並んだ桜並木はたいへん美しく、日本的な美を理解した文化人大使の審美眼の高さに感心する。
もう一人、この付近で皇居の風景を愛した西洋人がいた。大正10年から15年にフランス大使を務めていたポール・クローデルだ。当時フランス大使館は江戸城の清水堀近くにあった。詩人で劇作家、彫刻家のカミーユ・クローデルの兄でもあったポール・クローデルはお堀の風景を愛し、何篇もの詩を詠んでいる。春にはお堀に覆いかぶさるようにして咲き誇る桜を楽しんだことだろう。

皇居周辺のもっとも有名な桜の名所、千鳥ヶ淵戦没者墓苑が整備されたのは、戦後も昭和34年のこと。一帯のソメイヨシノの樹齢は壮齢期を過ぎているということだが、まだまだ東京のお花見名所として不動の地位を誇っている。しかし最近は地元千代田区による桜の樹の再生計画も行われている。桜の樹は早く生育するが、ソメイヨシノでもっとも盛んに花が咲く樹齢は三十年目くらい。三十五年くらいからが下り坂といわれている。何やら人間と似ているような気もするが、そうなるとお花見の名所を長期間維持していくためには、古木の手入れをし、若木を補充していかなければならないということだ。千代田区の桜名所では現在その努力が続けられている。

千鳥ヶ淵沿いには旧近衛師団司令部庁舎だったレンガ造りの建築がある。現在国立近代美術館の工芸館となっているが、この明治のレンガ連築は桜の中で見ると一層趣のあるものだ。
ここからほど近い靖国神社も桜の季節にはにぎわう。気象庁による桜開花宣言は、この境内にある標準木によるため、毎年日本全国から注目される存在である。

千鳥ヶ淵、武道館、靖国神社と連続したお花見ベルト地帯として、皇居外堀沿いの外堀公園も季節には桜が咲き乱れる。飯田橋、市ヶ谷、四谷と続く外堀沿いの桜の下では周辺の学生やサラリーマンが、昼夜酒宴を繰り広げている。



江戸伝統の花見の場


▲浜離宮


▲新宿御苑


▲明治40年代の上野公園(石黒敬章氏所蔵)

江戸時代からの桜の名所は将軍や幕府によって整備されたところが多い。または有力な藩の大名庭園だったものが今日に続いているところも見られる。
皇居の東御苑や浜離宮庭園は、言ってみれば将軍様のプライベートガーデン。六義園は将軍側用人・柳沢吉保別邸、小石川後楽園は水戸徳川家の中屋敷。どちらにもシダレザクラの大樹をはじめ、江戸時代からの由緒ある庭園内にみごたえのある桜の大木が並ぶ。

新宿御苑の由来は少し複雑だ。四谷、代々木、大久保にまたがる一帯は、江戸時代には信州高遠藩の内藤氏の中屋敷であったが、江戸の大火を機に、神田の上屋敷からここに移り広大な庭園を営んだ。それがこの新宿御苑のもっとも古い起源であり、それは一部現在の苑内日本庭園の玉藻池として鑑賞することができる。
明治維新後、内藤氏の屋敷は新宿御苑となり、園芸試験場としての時期を経て、明治12年に新宿植物御苑となる。皇室の御料生産のため、蔬菜、果樹、樹木、花卉の栽培や鴨池、養魚池などが置かれた。その時期の大名庭園は荒廃していたというが、今日みごとによみがえっている。
その後、新宿御苑内には、江戸時代の玉藻園のほかに西洋庭園、日本庭園が整備されていった。明治から大正にかけて、日本の桜を再認識しようとする気運が起こった時期に、宮中の観桜会の会場は、浜離宮から新宿御苑に移った。その後、大正7年には全国の桜各品種が集められて苑内で育種事業が始められることとなった。その結果、新宿御苑は多くの品種の桜を代わる代わる楽しめるお花見の場となったのだ。

このほか将軍様が庶民のために整備した花見の場として、上野寛永寺の所領や飛鳥山などが挙げられる。封建社会でも庶民の息抜きの場を作っておかないと暴動などが起こる危険性もあるというわけで、江戸時代にはお上によって、花見の場が計画的に整備された。
現在は上野公園になった寛永寺の所領には三代将軍家光の時に、天海僧正により吉野山より桜が植樹されたというし、八代将軍吉宗によって享保の改革で1270本ものソメイヨシノを植えたという飛鳥山は、より開放的な庶民の花見の名所であった。
上野の山では山同心と呼ばれる見回り・取締役が山内の管理にあたり、暮れ六つ(午後6時頃)になると山内から人を追い出し門を閉じたという。一方、上野では歌舞音曲は禁止、飲酒はよいが肴を食べるのは禁止だったのに対し、飛鳥山は規制がゆるやかだったため、にぎわいを見せた。多くの庶民が集まることで、地面が踏み固まり、土地を整備できるという効用もあったようだ。



近代公園と桜


▲小石川植物園

明治以降の東京には公園というものができた。上野公園は明治6年開園。昭和6年には、震災復興計画で整備された隅田公園が開園。江戸時代から墨堤として風流人、文人墨客が足を運ぶ地だった。長命寺の桜餅は桜ゆかりの銘菓としても名高い。
そのほか江戸時代から続く名園にも、明治大正昭和と桜が植えられてきた歴史がある。六義園や小石川植物園などに今咲いている桜も、そのほとんどは大正、昭和時代に植えられたもの。

八代将軍吉宗の時代に植えられたという、名勝小金井桜は、今も玉川上水沿いに残るが、これは大岡越前守の命により、大和の吉野山や常陸桜川からヤマザクラの苗木を取り寄せ桜並木とした由緒あるもの。大正13年には国の名勝に指定されている。植樹の理由として、観桜により新田のにぎわいを図ること、花見に訪れる多くの人びとに踏み固めてもらい玉川上水の土の崩れを防止した、桜による水の解毒作用を目的とした、などの説がある。
小平、小金井、西東京、武蔵野の四市約6キロにまたがる玉川上水という土木工事の輝かしい先例のそばにこの歴史的な桜並木があることは感慨深い。
どうも八代将軍吉宗は江戸を桜の都にしたと言えそうだ。飛鳥山、品川御殿山、小金井堤、隅田川など、今に残る東京の桜の名所の起源は吉宗によって植えられた桜なのだ。



再開発と桜、名建築と桜


▲自由学園「明日館」

今も多くの人に集まってほしいというところには桜が植えられるようだ。小規模な川や暗渠の親水公園の並木道。再開発で造られた新しい街路などにも桜並木はよく見られる。六本木ヒルズやアークヒルズにも桜並木が造られている。一方、汐留のように江戸時代からの浜離宮の桜と一体化した景色が楽しめるところもある。
そこでお花見した思い出が、来年の桜を待つ気持ちにつながり、町への愛着へとつながっていく。

名建築と桜という視点で、どこかすばらしいお花見スポットがないか考えてみると案外見つからない。オフィスビルや公共施設などには見つかりにくくて、学校や邸宅などにちらほらと見受けられる。坂倉準三ほか設計の六本木鳥居坂の国際文化会館、池袋のフランク・ロイド・ライト設計の自由学園明日館などは桜の季節にぜひ訪ねてみたい、お花見のできる名建築だ。


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