南町奉行所跡
時期により奉行所の場所は移り変わりましたが、大岡越前守の頃の南町奉行所は現在の有楽町駅(一部)からマリオンにかかる辺りの2,617坪余りの土地にありました。南町奉行所跡を示す記念碑は、駅前の交通会館南側の道路を隔てた向かい側にあります。
 
町奉行-江戸市中の重要な橋を担当
 町奉行は、江戸・大坂・京都・駿河・長崎などの主要都市に置かれましたが、江戸の町奉行だけは都市名を冠せず、単に「町奉行」と呼ばれました。
 映画やテレビの影響で、大岡越前守や遠山の金さんなど、白州で罪人を裁く裁判官のイメージが強いですが、その職務範囲はたいへん広く、江戸の建設事業も職務のうちでした。
 町奉行が担当した江戸建設の業績で、思い起こされるのは承応元年(1652)起工の玉川上水開削の工事です。このときは、町奉行神尾備前守元勝(任期:寛永15〜万治4年)が、将軍家綱に命ぜられて全工事を指揮しました。上水は普請奉行も担当しました。
 代官が農村を中心に広く直轄地の支配にあたったのに対して、町奉行は町(都市)だけの支配でした。一時は、北町奉行・中町奉行・南町奉行の3奉行制となったこともありましたが、享保4年(1719)から南北両奉行制となり、幕府崩壊まで続きました。ちなみに南町奉行、北町奉行は公称ではなく、また管轄地が異なっていたわけでもなく、それぞれ月番制で全町地を管轄しました。
 隅田川に架かる橋をはじめとして、橋梁の建設と保全は幕府にとって重要な公共事業で(本連載の後に触れます)、町奉行は江戸市中の入用橋に関して、請負人の選定、監督等に関与しました。町奉行所は罪人から物価安定、橋梁の保全までと多忙な毎日であったと思われます。
 格式からいえば、寺社奉行、町奉行、勘定奉行の順で、いまでいえば、町政に限るとはいえ、国務大臣、都知事、警視総監、消防総監、裁判所長官、地方施設整備局長などを兼ねる職でした。
 町奉行の下僚は、与力、同心です。与力は表向きは一代限りがルールでしたが、事実上は世襲で町奉行が代わっても変わらず、奉行所の実務に熟達したエキスパートで、江戸の町々の隅から隅までの事情に通暁していました。時代劇の「八丁堀の旦那」です。官舎は、東京建設業協会のある八丁堀(現中央区)にあり、与力宅は250坪、同心宅は100坪ぐらいで、生計に資するためその大部分を町人に貸していました。
北町奉行所跡
文化3年以後の北町奉行所は、丸の内一丁目の呉服橋西詰めの南角にありました。東京駅八重洲北口の国際観光ホテルのところに北町奉行所跡の碑が立っていましたが、現在はビルの建て直し工事のためか、見当たりません。
与力・同心の官舎があった八丁堀の現在
(右は、東京建設会館)

現在の風景からは「八丁堀の旦那」のイメージはとても浮かびませんが、南北奉行合わせて、与力50人、同心250人前後の役宅がありました。
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