【シリーズ】「駅のある風景☆TOKYO」

新しい情報発信の地を
予感させる汐留の再開発
――都心最大級の再開発事業、進む 
(東建月報3月号掲載)



▲建設の進む旧新橋復元駅舎。

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プラットホームも一部復元されている。
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▲開業当時の旧新橋停車場。
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▲赤レンガ造りの高架線(新橋駅よりやや浜松町寄り付近)。
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▲新橋駅烏森口(赤レンガの高架が見える)。
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▲新橋駅汐留口から銀座口方面を望む。
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▲新橋駅西口(日比谷口)駅前広場(奥にシンボルの蒸気機関車が見える)。
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▲汐留口にある「鉄道唱歌の碑」。
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▲ゆりかもめ新橋駅入口。
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▲大江戸線汐留駅の広大な通路。
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▲ゆりかもめ新橋駅からカレッタ汐留に至る自由通路(カレッタ汐留から新橋方面を望む)。
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▲汐留1〜3街区(北側)の高層ビル群。
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▲汐留1街区から南側の諸街区方面を望む。
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▲カレッタ汐留上より浜離宮庭園を望む。奥にレインボーブリッジ、お台場が見える。
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▲同、築地市場方面を望む。
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鉄道発祥の地・新橋に
旧停車場を復元

 新橋・汐留地区。31ヘクタールに及ぶ広大な用地はシオサイトと名付けられ、いま再開発事業が急ピッチで進められている。すでに地下5階地上48階建て・高さ210メートルの電通本社ビルが昨年末にカレッタ汐留としてオープンしている。また近々、高さ120メートルの松下電工本社ビル、215メートルのAMタワービル、172メートルの鹿島棟、192メートルの日本テレビ本社などが続々竣工する。東京で最も活気があり、最も変わりつつある都市空間として注目を集めているところの1つだ。

 そして、その一隅、昭和通りに面して地上2階建てと周辺ビルと比べると誠にこじんまりとした建物だが、初代新橋停車場が復元され、これも近々公開される予定となっている。

 ご存じの通り新橋(汐留)は、わが国鉄道発祥の地である。

 明治5年(1873)10月14日、明治天皇をお迎えして華々しい開業式が挙行され、新橋〜横浜間にわが国初の鉄道が開業し、鉄道時代が始まった。まさに文明開化の象徴であったろう。以来鉄道は、幾多の変遷を重ねながら全国津々浦々まで四通八達して行ったのだが、その原点は開業式が行われた新橋停車場であり、鉄道発祥の記念碑の意味も込めて、国の史跡として保存されてきた旧新橋停車場跡地に、往時を偲ぶ駅舎が復元されたのである。

 (財)東日本鉄道文化財団により復元された駅舎は、鉄筋コンクリート造一部鉄骨造2階建てで、延べ1千251平米。外観は、明治5年竣工の旧駅舎を忠実に再現したものだが、残念ながら設計図が残っておらず、そのため史跡となっている駅舎の基礎石から寸法を正確に計測し、さらに写真から平面及び立面的な規模、窓の大きさ、外壁材の寸法などを算出するという苦心を払っている。

 また復元駅舎と連続して、25メートルのプラットホームも再建。軌道についても、史跡として残されていた0哩標識とレールを復元し、往時の姿を偲ばせる。復元駅舎内には4カ所の見学窓を設置して、現在は埋め戻して保存されている駅舎基礎や、かつてのプラットホームの一部が見られるように工夫され、鉄道の歴史を振り返る展示室も設けられるなど、駅の博物館となる予定である。

新橋・横浜両停車場とも
R・P・ブリジェンスの設計

 ここに明治5年に建設された初代の新橋停車場は、木骨外壁石壁造2階建て2棟構造の洋風建築だった。もう一方の起点横浜駅(現在の桜木町駅)も、構造はまったく同一プランであった。

 建物は、桁行20.8メートル、梁間9.6メートルの2棟と中央部に桁行、梁間とも14.5メートルの木造平屋で構成され、平屋部分は広間、2階建て部分の1階は左手が上・中等待合室や駅長室など、右手が下等待合室や守線長(保線)詰所などに、2階は事務所に使用された。また駅舎の中央から長さ151.5メートル、幅9.1メートルのプラットホームが延び、長さ90.9メートルの上家が掛けられていたという。

 鉄道建設に当たり、わが国はイギリス方式を採用した。指導にあたった若きイギリス人、エドモンド・モレルの名前が有名だが、新橋・横浜両停車場とも設計はアメリカ人建築技師のR・P・ブリジェンス。横浜居留地で活躍し、清水組(現清水建設)の清水喜助が手がけた築地ホテル館の基本設計を行ったブリジェンスが、イギリス主導の鉄道建設でアメリカ人でありながら重要な駅舎の設計を担当できたのは、妻の姉が当時のイギリス領事の夫人といわれ、また鉄道建設にも埋め立てなどで重要な役割を果たした高島嘉右衛門と懇意だったためと思われる。

 横浜から西に延びた東海道線はもとより、東京の市街線も順調に建設されて行ったが、新橋〜上野間は線路がつながっておらず、不便をかこっていた。明治22年(1889)1月に施行された東京市区改正設計条例により、両断されていた新橋〜上野間の接続と中央停車場、すなわち東京駅の建設が決定した。この時東海道線のルートが変更され、浜松町駅の少し先、金杉橋付近から上野までは高架線として建設された。現在、東海道線を始め京浜東北線、山手線などが走る赤レンガ造の高架線は明治30年から40年代のこの時造られたものである。

 大正3年(1914)12月、東京駅が開業し、新ルートで列車の運行が開始され、新橋駅停車場は使命を終えた。新橋停車場構内は名称を変えて、汐留貨物駅及び操車場となり、駅舎は事務所としての役割を果たしていたが、大正12年(1923)9月1日の関東大震災のため横浜停車場とともに焼失。明治初期の、洋風建築としての勇姿を失ってしまった。

烏森駅から新橋駅へ
初代駅舎はネオ・ルネッサンス様式

 東海道線のルート変更とともに建設されたのが、現在のJR新橋駅。新橋通過線路は、当初から外壁がレンガ造の高架線として建設されたため、明治42年(1909)11月の山手線(烏森〜品川〜上野)電車運転開始時は、高架線下の仮駅で営業を開始し、レンガ造2階建て延べ1千462平米の駅舎は大正3年3月に完成した。左右対称でネオ・ルネッサンス様式の駅舎は、東京駅とはまた一味違う偉容を誇っていたという。

 東海道線新ルート開通とともに、それまで烏森駅と呼ばれていた駅名を新橋駅に変更した。だがこの駅舎も、関東大震災で焼失してしまった。しかし、鉄骨を使用した骨格がしっかりしていたため、大正15年(1926)に復旧されたものの、塔を頂いていた屋根は陸屋根となり、面影を失った。そして昭和20年(1945)5月に空襲を受けて被弾、プラットホームなどに被害を被った。

 戦後の新橋は、駅よりも周辺の変遷で有名になった。駅前広場、ことに西口広場に終戦直後から闇市が立ち、都内各所に林立した闇市の象徴のような存在となったからである。世情が落ち着き、闇市が姿を消すと、その後にバラック建てのような小さな小間割りの飲屋街が出現し、防災上また防犯上など都市環境の面から問題となってきたため、東京都は脆弱な木造家屋の密集するこの界隈2.95ヘクタールを、昭和40年(1965)、市街地改造法(同法は昭和44年に廃止)により再開発事業に着手。東口、西口とも9階建ての再開発ビルが完成した。これにより新橋駅周辺はすっかり近代的な姿に生まれ変わった。そして西口は駅前広場も整備され、SLのC11が一隅に置かれ、いまでは名物になっている。

 さて現在の新橋駅は、横須賀線の地下駅乗り入れとともに、駅機能強化のため旧駅舎を解体しながら昭和52年(1977)に造り直されたものである。横須賀線の地下化は、55年に実現した。

 銀座に近く、霞ヶ関の官庁街の最寄り駅でもある新橋駅は、平成13年度で1日平均22万5千800人余と利用客が多く、都内のJRの駅では7番目にランクされている。サラリーマンのおじさんの街といったイメージもあるが、汐留の再開発事業が完成すると、利用客はさらに増えることだろう。

新橋には四つの駅が
面目を一新したゆりかもめ新橋駅

 現在新橋地区には、東海道線・横須賀線・京浜東北線・山手線が乗り入れるJR新橋駅のほか営団地下鉄銀座線新橋駅、都営地下鉄浅草線新橋駅、新交通システムゆりかもめ新橋駅と、四つの新橋駅がある。

 四つの新橋駅の中で新しく生まれ変わったのが、ゆりかもめの新橋駅。ゆりかもめそのものは平成7年に新橋駅を起点に開業し、発展著しいお台場地区への足としてすっかり定着しているが、さらに利用者の利便性、快適性を高め、輸送力の増強を図ることを目的に、平成10年から新駅整備工事が進められ、昨年3月に完成した。

 新しい駅は、駅ビル4階に長さ54メートル、幅12.6メートルの島式プラットホームとなり、乗降が非常にスムーズになるなど、面目を一新した。また2階部分のデッキ階は公共自由通路となっており、汐留の各ビルへと歩いて行ける。また、汐留再開発に合わせて開業したゆりかもめ汐留駅まで通じており、ここを歩くと汐留地区の全容や、隣接する浜離宮庭園などが見られる絶好の散歩コースでもある。

新しい情報発信を予感させる街

 さて汐留は、かつては葦(あし)に覆われた湿地帯だったところ。江戸時代に埋め立てられて、仙台藩など武家屋敷が建ち並んでいた。再開発事業に先立ち、発掘調査が行われ、武家屋敷の遺構や茶碗、皿など日用生活用品が多数出土し、江戸時代の生活ぶりがかいま見られたことは記憶に新しい。

 都心部最後の大規模再開発となるこの事業は、31ヘクタールの広大な用地がAからIまで9街区に分けられ、それぞれに超高層のオフィスビルやホテル、公団賃貸住宅、民間分譲マンションなどが建設されて、5万人が働き、また住み、遊ぶ街となる。

 銀座方面から眺めると、かつての貨物駅時代はさえぎるものがない広々とした空間だったが、いまはたくさんの超高層ビルが林立しており、あたりの風景が変わった。地区に足を踏み入れると、様々なデザインのビルが目を楽しませてくれる。 地下、地上また2階部分につくられた通路には、至るところにベンチが置かれ、ゆっくりと過すこともできる。

 超高層ビル群に行くと、何となく圧迫感を感じるものだが、汐留はそれを感じさせない。運河を挟んで、浜離宮庭園や東京湾方面が開けているためだろうか。そしてこの街は、新しい情報を発信するだろう何かを感じさせてくれる。

(平成14年4月号から開始した本シリーズ『駅のある風景TOKYO』は、本号で終了です。今年は、江戸開府400年。4月号からは、これにちなみ、新シリーズ『江戸建設 開府400年』の連載を開始します。江戸のまちづくりに建設業がどう係っていたのかを中心に紹介していきます。)


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