【シリーズ】「駅のある風景☆TOKYO」

いまも風情のある浅草界隈
――観音信仰とともに発展した浅草は、下町情緒たっぷりな魅力ある庶民の街
(東建月報2月号掲載)



▲デパートの2階にある東武「浅草」駅。

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金龍山浅草寺本堂(国宝)。浅草寺は、東京最古の寺で聖観音宗総本山。浅草七福神巡りの大黒天。
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▲東武浅草駅の反対側はこんな感じ。
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▲日本最初の地下鉄、営団銀座線「浅草」駅
(吾妻橋付近の出入口)。
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▲都営浅草線「浅草」駅(駒形橋付近の出入口)。
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▲雷門は、浅草寺の正面にある。巨大なちょうちんは高さ4m、直径3.4m、重さ670kg。正式名称は「風神雷神門」。向って右に風神像、左に雷神像がある。

▲宝蔵門。浅草寺の山門。国宝の法華経をはじめ貴重な什宝物が収蔵されており、仁王尊像の阿形像(左)、う形像(右)が安置されている。左手は五重塔。
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▲伝法院。1777年建立。浅草寺の本坊で、僧侶の修行の場となっている。約340年前にできたという小堀遠州作の庭園と心字池がある。
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▲伝法院の池泉回遊式庭園。
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▲薬師堂。当初は観音堂の北方にあったが、慶安2年(1649)家光が観音堂の北西に建て直した。平成6年、現在の場所に移された。浅草神社の社殿と同時代で、二天門などに次ぐ古建築。
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▲淡島堂。折れてしまった針を、豆腐に刺して感謝する針供養で有名(2月8日に行われる)。
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▲二天門(重要文化財)。もとは浅草寺境内に造られた東照宮の将軍御成門。それらが、江戸の火事で消失したため現在の位置に移された。八脚門の両脇には上野寛永寺より移された二天像(持国天と増長天)が安置されている。
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▲影向堂。平成6年、浅草寺中興開山慈覚大師生誕1,200年を記念して建立された。内陣に聖観音菩薩像とその左右に十二支生まれ年の守り本尊八体の像が祀られている。
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▲浅草神社(重要文化財)は、江戸三大祭の三社祭で有名。浅草七福神巡りの恵比須。
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▲浅草神社境内では、猿回しの興行も。
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▲隅田川(言問橋を望む)。季節には、両岸の桜並木が美しい。
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▲「花」の歌碑。武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲の名曲。
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▲待乳山本龍院(待乳山聖天)。浅草寺の末寺で「聖天さま」と呼ばれている。浅草七福神巡りの昆沙門天。浅草寺とほぼ同じころに創建されたという古社。1月7日の大根まつりで有名。
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雷門・仲見世・観音堂と人込みの
三点セットに浅草を感じる

 雷門から雑踏する仲見世通りを抜けて宝蔵門をくぐると、正面に観音さまで知られる浅草寺本堂の黒ずんだ偉容が聳(そび)え建つ。左手に五重塔と伝法院が、すぐ裏に浅草神社、また二天門がある。そして参詣するいつもと変わらぬ老若男女の人込みは、ああ浅草だと実感させる光景だ。

 観音さまだけでなく、浅草は、六区の興業街、花やしき、また合羽橋の食器問屋街、浅草通りの神具仏具屋街、花川戸、大川(隅田川)に架かる吾妻橋と言問橋、両岸沿いに桜で知られる隅田公園などなどと広い範囲にわたって展開し、この中に社寺仏閣、名所旧跡、いろいろな老舗や飲食店などが数多く点在する独特な雰囲気をもった庶民の街である。

 浅草は庶民信仰の観音さまとともに発展し、江戸時代すでに江都一の盛り場であり、さらに明治以降は六区の繁栄により日本一の盛り場の威勢を示していた。だが戦後、銀座や新宿、渋谷などだけでなく、赤坂、原宿、六本木など盛り場の多様化とともに陰りが生じてきた。しかし、依然、人々を引きつける魅力のある下町の象徴であることに変わりない。

浅草はわが国地下鉄発祥の地
吾妻橋口上屋には粋な円形の装飾文字が

 その浅草には、東武鉄道伊勢崎線「浅草」駅、営団地下鉄銀座線「浅草」駅、都営地下鉄浅草線「浅草」駅と、三つの浅草駅がある。面白いことに、東武浅草駅はデパート2階の高架駅。地下鉄は当然地下駅だから、浅草には地平発着の駅はないのである。

 最初に浅草に乗り入れた鉄道は、営団地下鉄の前身、東京地下鉄道が建設した地下鉄だった。昭和2年(1927)12月30日、浅草を起点として上野までの2.2キロメートルが開通し、わが国の地下鉄第一号が営業運転を開始した。ここに地下鉄時代の幕が切って落とされた。

 開通当初は、物珍しさもあって早朝から乗客が押し寄せ、上野駅では広小路あたりまで行列ができるほどの騒ぎとなり、乗り込むまで1時間もかかったという。運賃は1人10銭均一。切符でなく10銭コインを改札に入れ、1人ずつ回しながら通ることができるターンシステムを設置したことも、人気を呼んだ。地下鉄は観音参りの足となり、たちまち東京の新名所となった。

 地下鉄だから駅施設は地下につくられたが、出入口は吾妻橋口、花川戸にあった花川戸ビル口、雷門口などが設置された。このうち吾妻橋の袂につくられた寺院風の吾妻橋口上屋はいかにも浅草らしい建物であり、また階段上の鉄格子に、丸い円の装飾文字で「地下鉄入口」とデザインされているのも粋である。

 浅草起点の地下鉄は、その後順次線路を延ばし、昭和6年(1931)6月、新橋まで開通した。また、渋谷から新橋まで東京高速鉄道により建設されてきた地下鉄が開通したので、新橋駅を整備して両線路がつながり、14年(1939)1月、直通運転が開始されて、浅草への足は大変便利になった。そして日中戦争による統制経済体制実施に伴い両社が統合され、帝都高速度交通営団へ移行していったのである。そのほかにも建設計画は幾つか立てられていたが、結局戦前の地下鉄は銀座線1線だけであった。

デパート2階起点の東武浅草駅は、
昭和6年から
新仲見世通りはこの時つくられた

 東武鉄道伊勢崎線の起点・浅草駅は、昭和6年5月、東京初のターミナルデパートとして開業した松屋デパートの2階が駅になっている。

 明治30年(1897)に設立された東武鉄道は、明治32年、業平橋~伊勢崎間を開業し、その後東上鉄道や佐野鉄道などを吸収して発展してきたが、隅田川越えがなかなかできなかった。だが、花川戸の一角に、RC造地下1階地上7階建てのターミナルビルを建設したのと同時に鉄橋を架け、浅草を起点駅とした。そして、日光や鬼怒川方面行きの直通電車を運行している。現在は、さらに鬼怒川から会津に抜ける野岩鉄道および会津鉄道が開通したので乗り入れし、会津若松方面にも浅草から直行できるようになり、人気が高まっている。

 また、ターミナルビルから馬道通りを挟んで仲見世通りに真っ直ぐ向かう新仲見世通りは、ビル竣工後、回り道せずに直接観音さまに行けるよう、この時つくられたものである。

隅田川河底トンネルは潜函工法で
駅を近接させるため
カーブの測量に苦心した

 浅草で一番新しい地下鉄が、都営浅草線。都営一号線として建設された浅草線は、当初から京成電鉄、京浜急行電鉄との相互乗り入れが前提とされ、昭和33年(1958)8月に着工。35年12月に、まず浅草橋~押上間が開通、同時に浅草駅も開業した。西馬込までの全線が開通したのは43年(1968)11月。また、泉岳寺から分岐して品川駅に乗り入れ、京浜急行と相互乗入れし、浅草方面と羽田空港や三浦半島が直接結ばれた。

 都営浅草線建設で浅草駅近辺では、隅田川の川底を横断させることと、営団浅草駅とできるだけ接近させることに苦労したという。隅田川横断には潜函工法を採用、両岸から川幅半分ずつを締め切って築島し、9個のケーソンを沈めて河底トンネルをつくった。両駅の近接は、都営駅をカーブさせてできるだけ近づけた。そのため河底トンネルは隅田川を斜めに横断することになり、測量に苦心を払ったという。両駅間は、長い地下通路で連絡している。

浅草観音は庶民の信仰が支えに
賑々しい仲見世は一番浅草らしい

 浅草寺境内と周辺を少し見ておこう。
 金龍山浅草寺は、いまからおおよそ1,400年ぐらい昔の推古朝のころ、漁師の網にかかった一寸八分(5.5センチ)の金無垢の観音像を、小さな御堂に安置したのが始まりと言われる。そして庶民の絶大な信仰を集め、鎌倉時代にはかなりの大伽藍になっていた。徳川幕府も尊崇し、慶安2年(1649)に再建された本堂は、関東大震災を生き延びたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失したため、33年(1958)、RC造で再建された。観音像は秘仏である。

 浅草寺総門の雷門(正しくは「風雷神門」という)には大提灯がつり下がり、また大わらじがかかっているのが宝蔵門。五重塔は平安朝期の天慶年間に建設されたと伝えられるが、現在のものは戦後の再建。伝法院は浅草寺の本坊で、池泉回遊式庭園の内庭は小堀遠州作と言われている。左手に薬師堂、淡島堂、影向堂(ようごどう)など、浅草寺ゆかりの御堂がある。右手の東門に当たる二天門は、かつて境内にあった浅草東照宮の随身門だったが、東照宮が焼失して門だけ残った。関東大震災も戦災も免れ、境内では一番古い建物であり、重要文化財に指定されている。

 本堂裏手の浅草神社は、浅草の総鎮守。創建は平安末期から鎌倉初期のころとされ、本殿・幣殿を渡り廊下でつなぐ権現造りの社殿は、慶安2年(1649)、徳川三代将軍家光が寄進したもの。国の重要文化財に指定されている。ここは東京の三大祭りの一つで、5月14~16日に行われる勇壮な御輿の三社祭で有名。三社とは権現思想からきたもの。祭神の、観音安置に関わった土師真名知、拾い上げた檜前浜成、武成兄弟を阿弥陀如来、その脇侍の観音菩薩、勢至菩薩に模して三社と呼ばれ出したものである。社殿の裏に、江戸期の戯作者、山東京伝の筆塚がある。また、ちょうど境内で女性の猿回しが、猿を巧みに操っていたのも微笑ましかった。浅草は大道芸もよく似合う。

 浅草寺の表参道仲見世は、江戸・元禄のころ、境内の清掃を請け負わせるため、付近の住民に認めた20軒の出店から発展したものだという。いまは何軒あるのだろう。一軒一軒は小さな小間割りだが、玩具類、衣類、煎餅や雷おこしなどから外国人向けの東京土産その他諸々何でも揃っており、参詣客の足を引き止め常に賑々しく、一番浅草らしい風景が見られる。7月のほおずき市、12月の羽子板市はことに賑やかだ。

下町情緒と人情の街
浅草はどっこい生きている

 境内から足を伸ばして、まず六区。ここはかつて映画館、演芸場や寄席などが軒を連ね、盆暮れ正月はもとより、常に人出が絶えなかった日本一の興業街だった。だが、いまは人出も大幅に減り、少し淋しい。

 江戸時代から歓楽の中心だった六区の名称のいわれは、明治4年(1871)、明治新政府に浅草寺境内地が没収され、同6年、寛永寺、増上寺、富岡八幡宮、飛鳥山とともに太政官布告により、浅草寺も公園に指定(浅草公園)された。浅草公園は、一区(本堂周辺)から七区(寺付属地の馬道町)に分けられ、江戸時代から芝居小屋、見せ物小屋などが集まっていた界隈を六区としたことに始まる。大道芸が盛んだった奥山は五区(現在花やしきがある周辺)。以来各種の芸人や見せ物が集まり、興業の中心として発展した。ことに活動写真や浅草オペラ、カジノフォーリー(軽演劇)などが一世を風靡して、田谷力三やエノケン(榎本健一)、ロッパ(古川緑波)など戦前の大スターを生み、寅さんでお馴染みの渥美清も戦後の浅草育ちである。昭和4年(1929)、映画常設館の電気館で本格的トーキー映画が、新宿武蔵野館とともに全国に先駆けて上映されている。その頃は、六区で当たらない映画は全国的にダメだと言われたものである。しかし、テレビの普及をはじめ、繁華街の多様化は、六区の賑わいをすっかり奪ってしまった。

 大道芸人や見せ物小屋が集まった奥山(その後五区)には、遊園地の花やしきがつくられ、これはいまも健在。 また、国際通りに面して昭和12年(1937)に国際劇場が建てられ、松竹歌劇団の華やかな舞台が見られたが、56年(1981)に解体され、地下3階地上27階建ての超高層ホテル、浅草ビューホテルに生まれ変わっている。

 さて、浅草と切っても切り離せない大川(隅田川)沿いには、川を挟んで桜並木で知られる隅田公園がある。先に発展したのは東岸の墨田区側。ここに享保2年(1717)、七代将軍吉宗が、庶民も花見ができるようにと桜を植えさせたのが始まり。西岸、つまり浅草側は、関東大震災後の帝都復興計画により整備され、昭和6年に開園した。東岸には400本あまりのソメイヨシノ、シダレザクラ、ヒガンザクラなどが、西岸には吾妻橋から桜橋付近にかけて約700本程度のソメイヨシノが見事な並木をつくり、花の季節には人々を楽しませている。だが、東岸には首都高6号線が見え隠れし、また言問橋から見ると川沿いに高層ビルが林立しており、かつての隅田川風景はすいぶん様変わりしている。

 「春のうららのすみだ川、上り下りのふな人が…」誰しもが一度は歌ったことがあると思う滝廉太郎の名曲「花」(武島羽衣作詞)の歌碑が浅草側にあり、また「雪の日の隅田は青く都鳥」と詠んだ正岡子規の句碑をはじめ、多くの句碑が建立されている。公園そばには、本殿こそ戦後再建されたものだが、繁栄は江戸第一といわれた待乳山聖天(まつちやましょうてん)こと待乳山本龍院がある。ここは10メートル足らずの小山の上だが、平坦な浅草の中では、ひときわ目立つ緑の小山であり、広重も「待乳山上見晴の図」で描いている。

 観音さまを除き浅草全体は、斜陽と言われ出してから久しい。たしかに人出は激減し、六区など本当に淋しい限りだ。しかし、商店会や老舗のおかみさん達でつくる“浅草おかみさんの会”などは試行錯誤を重ねた上、真夏に新名物となった浅草サンバカーニバルを催したり、11月には東京時代祭を企画するなど、苦労しながら懸命に復権を図っており、徐々に元気を取り戻している。下町の情緒と人情、どっこい浅草は生きている。

(次回・最終回は、再開発の進む汐留を中心とした、新橋界隈)


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