【シリーズ】「駅のある風景☆TOKYO」

レトロモダン・両国駅
     ――クラシックな駅舎に江戸情緒あふれる街
(東建月報7月号掲載)



▲両国駅

sp.gif (807 バイト)

回向院
sp.gif (807 バイト)

両国駅から至近にある立浪部屋。近代的なビルの中にある。
sp.gif (807 バイト)


▲両国国技館。

sp.gif (807 バイト)

▲かつての操車場跡には、江戸東京博物館が建つ。1つだけ残った長距離用のホームが往時をしのばせる。
sp.gif (807 バイト)

▲国技館内。土俵の屋根が柱がなく吊られているのは、テレビ中継を見やすくするためとか。
sp.gif (807 バイト)

▲本場所興行時は、賑々しく幟が立ち並び、界隈も華やかになる。
sp.gif (807 バイト)

▲両国駅改札付近。横綱三重ノ海と関脇長谷川の優勝額が掛かる。
sp.gif (807 バイト)


▲都心にあって別天地の趣のある旧安田庭園。

sp.gif (807 バイト)

▲東京都慰霊堂(横網町公園)。
sp.gif (807 バイト)

▲東京都復興記念館(横網町公園)。
sp.gif (807 バイト)

▲吉良邸跡の本所松坂町公園。
sp.gif (807 バイト)

▲両国の町のそこここに力士像が。

両国は大相撲のふるさと

 大相撲興行時には、触れ太鼓の音が隅田の川風に乗って街に流れ、力士幟がはためく。現代和風建築の極致ともいえる国技の殿堂、両国国技館が堂々とした構えを見せ、大きなお相撲さんが闊歩する街両国は、大相撲の故郷である。

 大相撲と両国の因縁は、江戸時代の天保3年(1883)に本所回向院の境内で定場所が始められたことに遡る。谷風梶之助や小野川喜三郎、雷電為右衛門などの強豪力士が次々に登場して人気を博していた江戸相撲は、深川八幡、蔵前八幡、本所回向院、芝神明などの社寺の境内で1場所晴天10日間の興行が行われていたが、この時から回向院に定着した。

 明治42年(1909)、この回向院境内に相撲常設館として国技館(旧両国国技館)が建設され、天候に関係なく本場所が興行できることとなった。ヨーロッパ風の近代建築で、「大鉄傘」の愛称で親しまれた建物自体が東京の新名所ともなり、空前の相撲ブームを呼んだという。

 しかし、この旧両国国技館は、その後数奇な運命をたどることになる。大正6年(1917)に失火により全焼。再建された大正9年までの3年間は九段靖国神社で本場所が開催された。太平洋戦争中の昭和19年(1944)2月には軍部に接収され風船爆弾の工場となったが、翌3月の空襲により焼け落ちた。戦後は、形ばかりの修復が施され、進駐軍に接収された。メモリアルホールとして改装され、進駐軍により各種スポーツの会場として甦ったが、ここで大相撲が興行されたのは1場所だけであった。接収が解除されたのは昭和27年。プロレスやボクシング会場等にはなったが、大相撲が興行されることがないまま、昭和33年、日本相撲協会は日本大学に譲渡。以後、日大講堂となり、後に解体された。

 大相撲は、曲折を経て各地を転々としたが、昭和29年に蔵前国技館が建設されてようやく定着。さらに昭和59年11月、老朽化により閉館された蔵前国技館の隅田川対岸にあたる旧国鉄両国駅操車場と中央卸売市場江東市場の跡地に両国国技館が建設され、大相撲は両国の地に戻ってきた。

 現在58ある相撲部屋のうち20が墨田区内に、出羽海部屋、春日野部屋、二所ノ関部屋、時津風部屋など9部屋が両国1~4丁目に集まっている。墨田区内のほかの部屋も、本所・石原・亀沢・千歳など国技館に近い場所に点在している。

 両国界隈には、ちゃんこ料理屋が軒を連ね、また相撲グッズや相撲にちなんで名付けられた和菓子などが売られており、場所中ならずとも大変楽しく歩ける町並みを見せている。

両国国技館はBCS賞特別賞を受賞

 現在の両国国技館は、大相撲の伝統と近代性が融合した国技の殿堂にふさわしいイメージの建物である。人工地盤を配して規模はSRC造地下1階地上3階建て延べ35,342平方メートル。地下1階レベルにつくられた土俵を囲んですり鉢状の客席は、枡席、椅子席合わせて1万1千名を収容する。土俵は昇降装置による可動式で平土間となり、年間45日の本場所以外は多目的に使用でき、各種のイベントが開催されている。館内には、ほかに相撲教習所、相撲博物館、相撲診療所などの施設が入っている。

 人工地盤の屋上広場。その上に見られる緑色の大屋根は84メートル角の銅板段葺きで、隅切りが施されており、内部から見ると、大歓声がこだまする大鉄傘となっている。そしてこの大屋根は、降った雨水を地下に設けた貯水槽に溜めて衛生排水に利用するなど、当時として天然資源利用の最新技術を採用。昭和61年度のBCS賞(建築業協会賞)特別賞を受賞している。

 また、この建物は、都の防災拠点構想に応じるものとして、建物自体がひとつの防災シェルターとなるなどの特徴を有している。食糧備蓄倉庫を備え、大容量の自家発電機なども完備されている。

総武線のターミナル駅
としてスタート

 さて、国技館の玄関にあたるのが、1日の乗降客8万人超のJR総武線両国駅である。

 両国駅の歴史は、明治37年(1904)4月に本所・佐倉間をつなぐ民鉄の総武鉄道が開通したことにより始まる。始発駅となった当初は「両国橋駅」と名付けられた。ちなみに両国という地名は、昔、下総国と武蔵国は隅田川を挟んで分かれていたが、万治2年(1659)、両国を結ぶ橋(両国橋)が架けられたことに由来するもの。総武鉄道は3年後に国有化され、昭和6年(1931)に駅名が「両国駅」に改められた。

 総武線のターミナル駅としてスタートした両国橋駅だったが、国有化されても総武線は、なかなか隅田川を渡ることができなかった。ひとつは日露戦争後の資金難、かつ全線市街地線となるため用地買収の困難さが予想されたこと。
もうひとつは、まだ上野~新橋間の高架線が完成していなかったことによる。両国・お茶ノ水間はわずか2.7キロだが、ようやく隅田川に総武線鉄橋が架けられ、両国からお茶ノ水まで国電が通じたのは、昭和7年7月のことであった。

 国電が開通しても両国駅は、房総方面に向かう総武線のターミナル駅としての機能は失わなかった。特急や急行列車は両国駅を始発として、駅は賑わった。

 しかし昭和47年、総武線が地下化されて東京駅まで乗り入れたため、両国駅はターミナルとしての役割を終え、操車場跡地に国技館や江戸東京博物館が建設されたのである。

懐かしさを感じる両国駅

 現在の両国駅駅舎は、昭和4年(1929)に竣工したもの。設計は鉄道省建築課でRC造の駅舎としては、前回の上野駅より歴史が古い。建物の外観は、直線プラス正面少し左寄りにアーチ型にデザインされた3つの大きな窓を配した構成でまとめられ、小ぶりながらいかにもターミナル駅だと思わせる。眺めていると、どこか懐かしさを感じさせる風情がある。隣接する国技館や江戸東京博物館とはクラシックで好対照な建物と言えようか。

 かつてこの駅は、コンコースの床にタイルで土俵をかたどったデザインが施され、周囲の壁には大相撲の優勝力士の額が掲げられていた。しかしコンコースはビアホールの「ビアステーション両国」に変身して、この光景は失われてしまった。しかし、改札口前には今でも優勝力士の額が2枚(横綱三重ノ海と関脇長谷川)が掛かっており、国技館の玄関口駅であることを物語っている。

東京都慰霊堂は被服廠跡に建つ

 真っ直ぐに延びる総武線の両国駅を挟んで両国界隈は、北側の横網町と南側の両国の町並みにはっきりと分かれている。

 横網町を見てみると、両国国技館と東京都江戸東京博物館の大きな建物が建つ。平成5年(1993)3月に開館した江戸東京博物館は、中世から現代までの江戸・東京文化を一堂に展示し、子供から大人まで大都会江戸・東京の変貌ぶりがじっくり味わえる東京名所の1つとなっている。博物館裏手には、巨大な亀の上に立つ徳川家康像がある。

 国技館の少し先にあるのが、下野足利藩主本庄因幡守宗資が幕府から拝領し、その後丹後宮津藩主松平伯耆守の下屋敷跡だった旧安田庭園。明治になってから安田財閥の安田善次郎が所有したが、大正11年(1922)、東京市に寄贈されて一般公開された。庭園は宗資の築造と伝えられる。この庭園は、心字池を中心とした潮入回遊式庭園が特徴である。潮入というのは、隅田川の水を池に導き、川の干満の差を利用して池の風景に変化を与える珍しい方式。現在は墨田区が管理し、庭園の地下に約800トン貯水できる貯水槽をつくり、この水を利用して池の水の浄化と人工的干満による潮入を再現している。あまり広くはないが、中に入ると静寂で別天地の趣がある。

 この庭園と道を挟んで、はす向かいにあるのが面積約19,800平方メートルの横網町公園。ここは本所陸軍被服廠の跡で、ちょうど公園工事中だった大正12年9月1日、突如襲った関東大震災に際し、ここに逃げ込んだ人々が猛火に巻かれ、約3万2千もの人が焼死した。東京市は同9日にここで合同法要を行い、広く浄財を募り、昭和5年(1930)9月、伊東忠太の設計による東京都慰霊堂
が竣工して犠牲者の霊を弔った。さらに太平洋戦争での東京大空襲の犠牲者10万5千人を慰霊し、奉安している。中に入ると、洋画家徳永柳洲が大震災の実況を見て描いた油絵の一部と、東京大空襲の被災状況を撮影した写真家石川光陽の写真が掲げられている。高さ41メートルの三重塔には、基部は納骨堂として5万8千柱が奉祀されている。同公園内には、東京都復興記念館もあり、大震災や大空襲の資料が展示されているほか、震災遭難児童弔群像や中国の仏教徒から贈られた幽冥鐘、大震災時に迫害された朝鮮人犠牲者の慰霊碑なども建立されている。

赤穂浪士討ち入りの跡も残る

 一方、 駅南側の両国の町並みは、下町情緒たっぷりであり、名所も多い。まず両国駅西口から2、3分のところに京葉道路に面している回向院がある。さらに錦糸町方面に向かって少し行くと、本所松坂町由来碑があり、その裏手が小さな本所松坂町公園である。

 ここは元禄15年(1702)12月、赤穂浪士が討ち入りした吉良上野介の屋敷跡。もともとは現両国2、3丁目にまたがる約8,400平方メートルの広大な屋敷だったが、今はその面影はない。昭和9年(1934)に地元の有志が遺跡を後世に伝えようと、旧邸の一画を購入して公園とした。周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式を示す海鼠壁長屋門を模したコンクリート造となっている。

 吉良邸からさらに錦糸町よりに進むと両国小学校。京橋・入船町で生まれ、両国の地で幼少時代を過ごした芥川龍之介の文学碑がある。さらに行くと勝海舟生誕の地碑の建つ両国公園。

 こうした中に、前述した相撲部屋やちゃんこ料理屋などが点在しており、建造物こそ現代風のRC造あるいはモルタル造が多く、京葉道路などは車の往来も大変激しいが、界隈の雰囲気は江戸情緒が残り、下町らしい。これは、両国の持つイメージがしっかり定着しているからだろう。

(次回は、今も都内に残る貴重な路面電車、都営「荒川線」
と東急「世田谷線」。)


もどる