| 【シリーズ】「駅のある風景☆TOKYO」
ハイソな文化をはぐくむ田園調布界隈(東建月報5月号掲載) |
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高級住宅地の代名詞 渋谷から横浜を結ぶ東急東横線沿線は、落ち着いたたたずまいの住宅地が多いばかりでなく代官山や自由が丘といったお洒落な街もあって、人気が高い。渋谷から各駅停車に乗っても約15分、若い買物客でにぎわう自由が丘に隣接するのが閑静な田園調布である。有名な高級住宅地であるばかりでなく、その昔田園コロシアムというテニスの聖地があった場所でもある。田園コロシアムは、昭和11年(1936)に日本で初めてのテニスの国際試合が開催された所。世界有数といわれたクレーコートを擁し、デビスカップやジャパンオープンなどが開催されたが、昭和62年に完成した有明コロシアムにその座を譲り渡すと、平成元年(1989)に惜しまれつつその歴史を閉じた。今は、その栄光を受け継ぐ14面のクレーコートを持つ田園テニス倶楽部が往時をしのばせる。 田園都市構想に基づいて実現した さて田園調布の町並みは、大田区の北西部、多摩川を背になだらかに起伏する多摩川台地に広がっている。駅前広場から西側を望むと、イチョウ並木が美しい三本の道路が放射状にのび、3丁目の町並みが扇形に広がっており、その先は4、5丁目の住宅地。東側には、1、2丁目の住宅地。そして、その要に位置するのが田園調布駅である。 田園調布は、渋沢栄一を中心に大正7年(1918)に設立された田園都市株式会社が、東京府荏原郡洗足村、碑衾村、調布村、玉川村(現洗足、大岡山、奥沢、田園調布)など一帯にかけての用地を買収し、自然と文化の調和を狙った田園都市構想に基づいて欧米の田園都市を参考に、特にサンフランシスコ郊外のセント・フランシス・ウッドのエトワール方式を基本に取り入れて開発したものである。大正12年から分譲された。 そして、注目すべきは土地購入者の住宅建設に対し、1.他人の迷惑となるような建物を建てないこと、2.障壁を設ける場合も、瀟洒にして典雅なものとすること、3.建物は3階以下とすること、4.建物敷地は宅地の5割以下とすること、5.建築線と道路との間隔は道路幅員の2分の1とすること、6.住宅工費は坪当たり2・30円以上とすること、などの厳しい自主規制枠を定めたことである。住民がこの自主規制を受け入れたからこそ、今に残る閑静にして優雅なたたずまいが生まれたのである。 また、道路の幅員も最低でも4メートル、幹線道路は13メートルで街路樹を植え、駅前にはロータリーをつくり、テニスコートなどのスポーツ施設をつくって街ぐるみの公園化を図った。このために道路を含めて18%の空間率を確保したというから、大正末期に今までにない都市計画がここでは実現していたことになる。 田園調布のシンボルとなった この田園都市に対応する交通機関として、まず東急電鉄の前身・目黒蒲田電鉄により大正12年(1923)3月、目蒲線目黒〜丸子(現沼部)間が開通、田園調布は調布駅として営業を開始した。15年1月に田園調布駅に改称されている。目蒲線の全線開通は12年11月。一方東横線の方は、大正15年2月にまず神奈川〜丸子玉川(現多摩川)間が、次いで昭和2年(1927)4月に丸子玉川〜渋谷間が開通した。 こうして田園調布駅は、東横線、目蒲線の両線が通り、都心部と結ばれることになった。駅舎は、田園都市の玄関にふさわしく、かつ周辺環境ともマッチするように配慮が払われ、欧州中世紀の民家がモデルといわれる木造2階建ての瀟洒な建物が建設された。設計は、神宮外苑の絵画館や上高地帝国ホテルを設計した矢部金太郎といわれている。 以来60有余年、時代は変われど変わらぬスマートなたたずまいのこの建物は、田園調布のシンボルとして長年地元住民に親しまれてきた。しかし田園調布駅の大改造のため、平成2年(1990)8月に、ついに取り壊されてしまった。 この時、解体を惜しんだ地元の人たちは、駅前広場で「田園調布駅舎お別れの集い」を催して、想い出をありがとうと「蛍の光」を大合唱したという。いつの間にか取り壊されてしまう建物が多い中で、お別れ会まで開かれたこの駅舎は希有な例であり、それだけ住民に親しまれていたのである。 線路全面地下化で しかし、旧駅舎は死ななかった。平成12年(2000)1月、線路が地下化され、その上の人工地盤に田園調布新駅がつくられたが、一緒に旧駅舎も元の位置に不燃構造体でそっくり復元され、田園調布のシンボルが帰ってきたのである。ただし、以前は改札があったこの建物には駅舎としての機能はなく、駅前広場やそこに新たに設けられた改札口へのゲートとなっている。 田園調布駅の大改造は、東急電鉄の輸送力増強および東横線の混雑緩和を企図した「東横線複々線化事業」の一環として、目蒲線を利用して営団地下鉄・南北線、都営地下鉄・三田線と相互乗り入れを行うために実施された。このため田園調布駅は、東横線、目蒲線共に全面地下化されることになり、平成2年から7年にかけて地下化工事が進められ、9年にはその上に新しい駅舎も完成した。 また地下化に併せ、従来路線別ホームであったのが、線路を入れ替えて方向別ホームとなり、乗り換えの利便性が一気に向上した。 そして13年9月、目黒駅を経由して地下鉄南北線・三田線とつながり、武蔵小杉駅まで直通運転を開始。都心部への新たなアクセスルートがつくられたのである。この相互乗り入れを機に、目蒲線は、田園調布〜目黒間が目黒線に、多摩川〜蒲田間が多摩川線と分割・改称された。 田園調布の町に一体感が 田園調布では、地上を走っていた線路が地下化されたことにより、駅前広場を始めとするオープンスペースが拡大して、新しい町づくりが可能となった。新駅に隣接して東急スクエアガーデンサイトが建てられ、スーパーマーケットのほか、レストランや本屋、雑貨店等々が入居してにぎわいを見せている。またこれまで、スペースがなくてつくれなかったバスターミナルが、新駅に隣接して整備された。 なにより一番の利点となったのは、線路によってこれまで完全に分断されていた田園調布1、2丁目(東側)と3〜5丁目(西側)が地上部でつながり、町として一体感が増したことであろう。 大きく変貌した多摩川駅 さて、田園調布を出た東横線は、しばらく多摩川台地に沿って走り、やがて右に大きくカーブして多摩川を渡るが、カーブの手前にあるのが隣の多摩川駅。 かつてここには多摩川園という遊園地があり、子供たちの歓声が終日こだましていた。しかし、時代の進展とともに各地に新しいテーマパークがつくられ出すと客足が落ち、昭和54年(1979)ついに廃園となった。その後、多摩川園ラケットクラブという高級会員制テニスクラブがつくられたが、これも平成13年(2001)に完全閉鎖。今、その跡地は曲折を経て大田区が取得し、都市計画公園として自然保護を最優先とした整備が進められつつある。最初に取得した業者は住宅や墓地を計画していた。しかし、開発が行われると長年良質な自然環境を有してきたせっかくの土地が破壊されることになる。この湧水もある緑豊かな自然環境を次世代に継承することは我々の務めと行政が動いたのである。このゴールデンウィークには、田園調布パブリックガーデンフェアが開催されている。 その多摩川駅は前述したように、大正12年(1923)、目蒲線の開通で丸子玉川駅として開業。その後昭和6年に遊園地がつくられて多摩川園駅となり、平成12年多摩川駅と改称したが、この駅が大きく変貌したのは、目蒲線が目黒線と多摩川線とに分割・改称された時から。相互乗り入れの目黒線は蒲田方面には行かず、武蔵小杉駅へと向かう。このため多摩川〜蒲田間は多摩川線と改まり、多摩川駅がその始発駅となった。 多摩川駅は大改築され、多摩川線は地下ホーム、東横線・目黒線は高架ホームとなり、エスカレーター等で連絡しているが、蒲田方面から田園調布や渋谷、また目黒方面に行く場合、直通でなくなったため多少不便を感じるようだ。しかし駅舎は大きく、そして綺麗になった。 駅から田園調布方面の丘を見上げると、カトリック田園調布教会が町のシンボルのようにたたずんでいるのが見える。この教会は、昭和7年(1932)、当時の信徒とフランシスコ会カナダ管区の司祭・修道者によって旧い古墳のある丘の上に建てられたもの。 教会の対岸、多摩川寄りの高台には多摩川台公園がある。これも古墳のある丘であり、東京では珍しい国史跡の前方後円墳「亀甲山古墳」と東京都指定の「多摩川台古墳群」が保存されている。ここは、建設省が住民投票により多摩川八景に選定した景勝の地でもある。桜も多く、春には大勢の花見客でにぎわう。 桜坂には遠くから見物客も 多摩川駅から蒲田方面に向かって線路沿いに少し歩くと、ふるさと創生事業として復元された「六郷用水」の清流が見られる。六郷用水は、徳川家康が家臣の小泉次太夫に命じ、六郷領(現大田区の大半)農村の灌漑を目的として慶長14年(1607)に完成したもの。またの名を開削者にちなみ次太夫堀とも呼んだ。取水口は和泉村(現狛江市和泉)の多摩川。以後、近代まで農民の命の綱として利用されていたが、昭和に入ると用水としての使命を終え、ほとんどが埋め立てられていた。 復元された用水は湧水を利用しており、浅くかつ幅も狭いが、鯉が泳ぎ、小さな水車がつくられていたり、春には桜の花びらがはらはら流れの上に散る風景など、なかなか小洒落た散策路となっている。昭和63年(1988)に建設大臣から手づくり郷土賞を受賞している。 復元された六郷用水から左に曲がって少し行くと、流行歌にも唄われた桜坂がある。その名のとおり、季節には桜のトンネルとなる美しい坂である。歌で知られてからは、近隣のみならず遠くから若い花見客(坂見客?)も多く訪れるようになったという。逆に右に曲がった先が多摩川線の沼部駅。この駅は多摩川方面と蒲田方面のふたつの駅舎で構成されているが、蒲田方面には昔ながらの駅舎が残っている。こうしたひなびた駅舎に、昔年の思いをしのぶ人も少なくないだろう。 (次回は、新装なった上野駅。)
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