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隅田川橋めぐり――整備の進むスーパー堤防(東建月報3月号掲載)

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▲空から見た隅田川
手前から勝鬨橋、佃大橋、中央大橋、永代橋、隅田川大橋、清洲橋、左奥には、駒形橋、吾妻橋、言問橋、桜橋などが見える。
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▲隅田公園本所側
隅田公園は、日本で最初の本格的なリバーサイドパークだった(すみだ郷土文化資料館提供)。
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▲東都両国橋夏景色(橋本貞秀・画、安政6年(1859):江戸東京博物館提供)
江戸時代後期、両国橋西詰は大繁華街で、広小路には、軽業や歌舞伎芝居などの見世物小屋、髪結床、水茶屋などが立ち並んでいたほか、寿司・てんぷら・うなぎなどの屋台や物売り、大道芸人も集まり、夏は花火見物や屋形船など、たいへんな人手で賑わったという。
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▲隅田川花火 墨田区役所より桜橋方面
(花火はスターマイン:墨田区文化観光協会提供)。
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▲ユニークな意匠の桜橋(X型で歩行者専用)
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▲言問橋(川の両岸にある隅田公園を中央部で結ぶ)
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▲吾妻橋(3連上路式アーチ橋。旧吾妻橋は、隅田川で最初の鉄橋だった)
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▲駒形橋(塗装工事中)
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▲厩橋(隅田川唯一の3連下路式アーチ橋)
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▲蔵前橋(上流にある吾妻橋に似ているが、こちらは4連上路式アーチ橋)
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▲両国橋(左手が江戸時代賑わったという西詰)
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▲新大橋(旧新大橋は、明治村に保存されている)
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▲清洲橋(橋越しに大川端リバーシティが見える)
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▲隅田川大橋(上を首都高速道路が走る)
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▲大川端リバーシティのスーパー堤防から永代橋を望む
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▲中央大橋(周りに直線的な高層ビルが林立する中、斜めの線を強調)
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▲戦後、隅田川に最初に架けられた佃大橋
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▲珍しい跳開橋である勝鬨橋(昭和45年以来開いていない)

江戸・東京の歴史と隅田川
 江戸、そして東京の発展を語る上で、欠かせないのが「隅田川」の存在である。徳川家康は、天正18年(1590)江戸に入府したが、当時の江戸は、太田道灌が築いた城と、わずかな家並みがあるだけの漁村だったという。家康は、水運を重視し、運河の開削、水路網の整備、入り江の埋立てなどを行った。江戸の地名が、その地形(入り江の門戸)に由来するといわれていることからも、いかに海・川との関わりが深かったかが伺われる。
 水運の中心は隅田川であり、川沿いには蔵が立ち並び、当時の経済の中心地である大坂(大阪)や利根川流域から米をはじめ、みかんや茶などの食料、木材や木炭など、暮しに欠かせない多くの物資が運ばれてきた。江戸との産物流通は、周辺の醸造業や文化をも発展させた。
 また、こうした流通の場として賑わったばかりでなく、粋を気取る江戸っ子には、花見や花火大会、舟遊びなどの娯楽の場としても親しまれていた。
 明治維新を経て、江戸は慶應4年(1868)に東京と改称した。
 明治期も隅田川の水運は栄え、次々に航路が開かれ、沿川には多くの工場、倉庫が立ち並び、東京の繁栄と活力の源と言えるほど賑わっていた。
 しかし、やがて東京の交通は、関東大震災や幾多の洪水、地盤沈下などを経て、水上交通から陸上交通(鉄道、道路)へと移行し、水運への依存度は徐々に低くなっていった。
 戦後の高度成長とともに水質汚濁が進み、昭和39年(1964)の東京オリンピックの頃から首都高速道路が走るようになり、隅田川だけでなく、東京の景観は大きく変化した。
 今日では、下水道の整備、沿川の整備が進んで、水質もかなり回復している。

意匠を凝らした隅田川の橋たち
 隅田川に架かる橋は、一つとして同じものがなく、非常にバラエティに富んでいる。男性的な「永代橋」、女性的な「清洲橋」、技術的デザイン的に優れ、戦後アメリカ軍を驚かせたという可動橋「勝鬨橋」等々。この理由を、本誌でもお馴染みで橋の専門家である伊東孝日大教授は、その著書の中で次のように説明されている。
『架設当時、同じ形にするかどうかで、ちょっとした論争が見られた。同じ形にした方が、設計時間は短縮できるし(コンピューターはないので、手計算)、部材も規格化できて大量生産が可能になり、橋の架設も作業員が慣れてくるので、能率的である。しかし結果は、今日見るように、各地点にふさわしい橋のタイプとデザインが選ばれ…(中略)実は更に、深い意味がある。それは第二の関東大震災が起きたとき、どのタイプの橋が地震に強いかを知る狙いもあったというのである。』
 また、日本の近代土木技術の中で、一番自立の遅れたのが橋梁技術であると指摘。橋の設計から架設、材料等一切を我国で賄えるようになったのは大正になってからであり、それを実現したのは関東大震災による復興橋梁であった、と述べられている。
 現在、隅田川には、鉄道・高速道路・水管橋などの橋を合わせると、約30もの橋が架かっている。主な橋の詳細については、写真と表を参照されたい。

橋名

形   式

全長
(m)

幅員
(m)

完成年

桜橋

鋼箱桁

169.5

12

昭和60年

言問橋

ゲルバー鋼鈑桁

236.8

22

昭和3年

吾妻橋

鋼アーチ桁

150.3

20

昭和6年

駒形橋

鋼アーチ桁

146.3

22

昭和2年

厩橋

鋼アーチ桁

151.4

21.8

昭和4年

蔵前橋

鋼アーチ桁・コンクリートアーチ桁

173.4

22

昭和2年

両国橋

ゲルバー鋼鈑桁

257.7

24

昭和7年

新大橋

鋼斜張橋

170.0

24

昭和51年

清洲橋

鋼吊橋

186.2

22

昭和3年

隅田川大橋

鋼箱桁

391.7

29.5

昭和54年

永代橋

鋼アーチ桁

184.7

22

大正15年

中央大橋

鋼斜張橋

210.7

25

平成5年

佃大橋

鋼箱桁

476.3

25.2

昭和39年

勝鬨橋

鋼アーチ桁・鋼鈑桁

246.0

22

昭和15年

景観とスーパー堤防
 東京都は、失われた親水性を取り戻し、水害から街を守るための有効な護岸整備として昭和55年度(1980)から、スーパー堤防及び緩傾斜型堤防の整備事業を進めている。
 それでは、スーパー堤防というのは、どのようなものであろうか。
※クリックすると拡大表示します。
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 図に見るように、スーパー堤防は緩やかな斜面によって形成されている。これによって、通常の堤防では決壊してしまうような大洪水が起きても、決壊することはない。また幅が広い堤防なので、長期の洪水により通常の堤防であれば水の浸透で決壊してしまうような場合でも、決壊することはない。さらに、必要に応じ、軟弱地盤を改良し強い地盤をつくっているので、地震による液状化等にも耐え得ることができる。このほか、眺望が開け、生活機能の充実した街づくりができるというメリットがある。
 整備されたスーパー堤防や親水テラスは、隅田川では、桜橋から言問橋、吾妻橋付近や蔵前橋から永代橋にかけて、また中央大橋(大川端リバーシティ)付近など、随所に見ることができる。
 東京都では、東京の都市美全体を扱った「都市美ガイドライン」を平成元年に発行している。この中で、「河川」「水辺」については、次のように位置付けている。
『かつて東京の川や海は、人々にとって大変身近な存在であった。特に河口部や東京湾岸一帯は「水の都」と呼ばれ、水辺と一体的な景観が形成されてきた。こうした歴史的文脈を生かし、川や海を景観の骨格として再生・強化していくことが求められている。
 そのためには、以下の4つの視点が大切である。

  1. まず水辺が都市の中から「見える」ようにする
  2. 水辺に「近づける」ようにする
  3. 水辺で「楽しめる」ようにする
  4. 川や海から見た景観にも配慮する』

 これにより、今日では防災だけでなく環境や周辺景観にも配慮し、川に沿って意匠に工夫を凝らした遊歩道や公園、植栽などが整備され、周辺住民の憩いの場となり、親しまれるような水辺づくりに取り組まれているのである。


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