centlogo.jpg (6915 バイト) 新宿新都心と淀橋浄水場(東建月報2月号掲載)

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▲新宿駅から廃止直前の淀橋浄水場を望む
(昭和40年頃)
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▲淀橋浄水場全景
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▲淀橋浄水場建設前の用地の測量
(明治24年頃)
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▲上空から見た淀橋浄水場と西新宿
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▲淀橋浄水場遠景(大正末年頃)
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▲建設が進められる新宿初の超高層ビル、
京王プラザホテル
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▲昭和43年に竣工した新宿中央公園から
建設中の京王プラザホテルを望む
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▲駅前の混雑緩和のため多層構造に
設計された西口ロータリー
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▲計画道路の工事
※ここまでの写真提供
東京都・東京都水道歴史館
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▲上空から見た現在の西新宿
(淀橋浄水場の面影はない)

甲州街道の新しい宿
 新宿とは読んで字の如く「新しい宿」の意である。
 江戸時代、日本橋から甲州街道を西へ向かう旅人たちは最初の宿場である高井戸までの長い行程に難儀していた。
 そこで元禄11年(1698)、浅草の名主高松喜六らが幕府に請願して中間地点に新たな宿場がつくられることになった。
 その用地は現在の新宿御苑にあたり、信州高遠の内藤家の下屋敷の土地であったため、新しい宿場の意味から「内藤新宿」と呼ばれるようになった。これがいつしか内藤がとれて、新宿という地名になったのだが、現在でも新宿御苑一帯に内藤町という町名でその名残を留めている。

東京の発展を支えた淀橋浄水場
 今や高層ビルが林立し、東京の象徴である新都庁が威風堂々たる景観を見せている新宿新都心。
 新宿新都心計画が議決されたのは昭和35年のことであるが、用地は新宿駅西口の約56ヘクタールに及ぶ淀橋浄水場の跡地であった。
 ここで少し時代を遡って、この淀橋浄水場の歴史について触れてみたい。
 明治中期、相次ぐコレラの流行を機に江戸時代から使われていた玉川上水や神田上水の水質検査が行われ、水道システムの見直しが検討された。またこれらの水道は水圧がないため消火活動にも不向きだったこともあり、新たな水道設備の建設が望まれていた。
 そこで、明治23年に都心部への入口にあたる新宿に近代的な浄水場の建設計画が決定。明治31年に日本橋、神田に沈殿水の通水を開始し、翌32年、玉川上水を沈殿・ろ過し、ポンプ圧送あるいは自然流下によって1日17万立方メートルの水を鉄管の水道網で都心部に供給する最新システムの淀橋浄水場が完成したのである。
 明治32年当時の東京市内の人口は約150万だったが、39年には200万を突破、衛生的で便利な水道を使う人はなんと12倍に増えていたのである。
 急速に発展し続ける東京、そして増え続ける人口に追いつくため、ただちに水道の拡張工事が行われた。市内に消火栓が設置されたのもこの新システムの水道の功績であり、火災による被害も激減した。
 その後、明治、大正、昭和と大震災や戦争を経て、67年間、東京の人々の生活を支えてきた淀橋浄水場も、昭和40年3月31日、その歴史の幕を下ろすことになった。

防災都市の要から機能的な新都心へ
 かくして淀橋浄水場は東村山浄水場にその機能を移し、この跡地と周辺を含む96ヘクタールの区域に、道路や公園を整備し、官庁街、オフィス街、デパート、ホテル、商業施設等を有機的に配置する立体的で効率的な新宿新都心計画がスタートした。
 これは、千代田・中央・港の三区に集中している都市機能を分散・緩和するものであり、駅への交通アクセスのための街路、西口広場および地下駐車場に加え、都民の憩いの場としての公園、さらに宅地、建築物等を含めた総合的な事業であり、日本で初めての画期的な再開発計画であった。
 工事は淀橋浄水場の操業停止に先立って着工され、昭和42年に西口駅ビル、西口広場および駐車場が完成、翌昭和43年には新宿中央公園が竣工した。

超高層ビル時代の幕開け
 この間、駅周辺では百貨店や大型ビルの建設が相次いで進められ、昭和46年には新宿初の超高層ビル、京王プラザホテルが完成した。超高層ビル第1号である霞ケ関ビルはすでに昭和43年に完成しているが、地上47階建ての京王プラザホテルは高さ169メートルを誇り、当時は日本最高の超高層ビルであった。そして、昭和49年には住友ビル、KDDビル、三井ビルが竣工、51年には安田火災本社ビルと次々に200メートル級のビルが完成し、本格的な超高層ビル時代へ突入していった。

新時代の情報発信基地へ
 そして平成2年、東京都庁舎が完成し、新宿は名実ともに新都心として機能している。さらに南新宿のタイムズスクエアやサザンテラス、また甲州街道をさらに西へ下って東京オペラシティなど、ビジネス、ショッピング、カルチャーを含めた多指向性情報発信都市として、新宿は進化し続けている。300年前、旅人が足を休めた小さな宿場は、いま、21世紀への百代の過客の新しい宿ではないだろうか。


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