centlogo.jpg (6915 バイト) 江戸の日本橋・東京の日本橋(東建月報1月号掲載)

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▲写真1 北詰西側の橋詰広場にある
現在の道路元票
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▲図1 江戸初期の日本橋のにぎわい
(出光美術館蔵)
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▲図2 江戸後期の日本橋のにぎわい
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▲図3 日本橋南詰のにぎわい(明治初期)
(マスプロ電工美術館蔵)
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▲図4 日本橋北詰のにぎわい(明治初期)
(マスプロ電工美術館蔵)
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▲写真2 日本橋北詰の鳥瞰図(震災前)
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▲写真3  日本橋北詰の鳥瞰図(震災後)
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▲写真4  日本橋北詰の鳥瞰図
(昭和10年以降)
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▲写真5 下流側からの日本橋側景観
(震災前)
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▲写真6 日本橋南詰めの鳥瞰図(震災前)
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▲写真7 現在の日本橋
(表紙写真と同じもの)

 慶長8年(1603)にはじめて架設された日本橋は、もうじき400年をむかえる。この間の歴史を、周辺をふくめて素描してみると、いくつか変曲点のあったことがわかる。これを、大きく四つの時期にわけて考えることができる。
 第一期は、和風木造橋の江戸期、第二期は洋風木造橋の明治期、第三期は石造アーチ橋の大正・昭和期、第四期は高架道路におおわれた高度経済成長期以降である。

1 和風木造橋の江戸期

  1. 国土計画の要
     日本橋が現在地に架設されたとき、日本橋のもつ意義はたいへん大きかった。それは、日本の国土計画の要を決めるに等しかった。
     慶長8年の日比谷入江の埋立によって、東海道は西丸下から移動し、今の品川から高輪・芝口を経て、京橋・日本橋を通るルートに変わった。江戸湊は日本橋川を中心に設計され、江戸にとってもっとも重要な陸路と水路との交差点が、日本橋になった。
     江戸に権力を集中しようとした幕府は、翌9年(1604)、日本橋を五街道の基点(写真1)と定め、各街道に一里塚を築かせた。これによって日本の幹線道路は、日本橋を中心に決められ、江戸の市街は、放射状の道路を形づくることになった。
     江戸時代の川柳に、「日本橋何里々々の名付親」「道のりのめどにとらるゝ日本橋」とあるように、旅人は日本のどこにいても、日本橋を意識するようになった。
     江戸時代の人にとって、日本橋の橋上にたたずめば、江戸城と富士山を望め、江戸が日本の中心であることを実感できる場所であったにちがいない。
     江戸湾そして江戸湊に入るおびただしい舟をみて、気宇壮大な江戸中期の経世家である林子平は、日本橋そして江戸の都市の重要性を国際的な視野で説いた。
     「長崎に厳重に石火矢の備有て、却て安房相模の海港に其備なし、此事甚不審、……江戸日本橋より、唐・阿蘭陀迄境なしの水路也、然ルを此に不備して長崎にのみ備るは何ぞや」
  2. 擬宝珠にみる橋の格
     最初に架設された日本橋は、仮橋的なものと推測する文献もあるが、寛永初期(1624~30)に描かれたといわれる「江戸図屏風」(図1)には、すでに擬宝珠つきの反り橋が描かれ、橋上や周辺、水上のにぎわいをみることができる。
     擬宝珠は、橋の格をあらわすもので、城濠の郭門橋は別として、江戸市中の橋で、擬宝珠で飾られたものは、現在の銀座通りにかかっていた日本橋・京橋・新橋の三橋だけである。「日本橋」という橋名から考えても、橋をそんなに粗末にあつかったとも考えられない。仮橋の時期があったとしても、ほんの短い期間であったにちがいない。
  3. 統治政策の中央PRセンター
     国土の要をなす日本橋は、幕府にとって統治政策の中央PRセンターであった。ひとつは高札場であり、ひとつは晒し場であった。ともに日本橋の南詰めにあった。
     高札場には、大高札場とふつうの高札場との二種類あり、大高札場は日本橋をふくめ六カ所、ふつう高札場は35カ所あった。中でも重要なのが日本橋の高札場であった。大高札場には、共通の定高札といわれる7枚の高札があったが、日本橋には、ここだけにしか設置されない高札が掲げられていた。それは、幕府が政策としてもっとも重視したものであった。
     たとえば享保年間に立てられたものに、目安箱の設置に関する高札、諸国新田取り立ての高札、博奕の儀につき高札などがあった。新田取立の高札が、なぜ日本橋に立てられたのか不思議に思われるかもしれない。当時、新田開発の大事業は、江戸その他の大都市の富豪が金子元にならなければ実行できないことを反映している。
     道路の反対側にある晒し場は、封建秩序を乱す者を処罰して、幕府権力を庶民に示す社会統治のシンボルであった。
  4. 流通センター、江戸の文化
     北詰にある流通センターとしての魚河岸では、江戸中の鮮魚はもちろんのこと、関東・中部・東北方面の海産物を、一手に引き受けていた(図2)。
     日本橋商人の活力を反映するかのように、江戸の文化も日本橋界隈で生まれ、美術と出版と蘭学に顕著にみられた。錦絵を創始した鈴木春信の版元は馬喰町にあり、歌麿や写楽の絵の出版元は通油町にあった。蘭学者の杉田玄白も、通四丁目で外科医を営んでいた。
     金融・問屋・文化・流通・情報など、あらゆる都市機能と用途が集積し、それも一流のものが集まっていたのが日本橋界隈であった。

2 洋風木造橋の明治期

 和風木造橋の時代は、何回か架け替えられながらも、270年続いた。この間、国土の要と江戸の繁栄のシンボルとしての日本橋のステイタスは変わらなかった。しかし明治になると、維新政府のお膝下に位置した日本橋とその界隈は、繁華性を大きく揺さぶられた。
 明治6年2月、明治政府は、橋詰広場のにぎわいをつぶす政策を打ち出した。「葭簀張床店取除けの布令」である。これによって橋詰広場のもっていた娯楽的な機能が失われ、人のにぎわいも失われていった。
 これに先立つ明治5年2月、銀座で大火が起こり、あたらしい西洋式のまちづくりがはじめられた。
 明治5年9月には、わが国最初の鉄道が、新橋・横浜間に開通した。このアプローチ装置として維新政府が用意したのは、東京で最初の鉄橋の新橋(明治4年竣工)である。

  1. 橋面はフラット、歩者分離の橋
     日本橋もそれに負けじとつくられたのであろうか、明治6年5月、木造ではあったが、洋式の橋に架け替えられた。擬宝珠付きの和式反り橋にかわり、橋面は馬車などが通りやすいようにフラットになった(図3)。あたらしい交通手段が出現したので、橋上には早くも歩者分離のガードレールがみられる。中央の車道には人力車と馬車が走り、歩道は左側の一方通行であった。しかし錦絵を見るかぎり、それぞれ行き交う人がおり、一方通行は厳密には守られなかったようだ。
     ここには、江戸以来の舟運をやめて、あたらしい交通手段を歓迎した様子がうかがえる。
  2. 市民の基金でつくられた橋?
     興味深いのは、工事費の捻出である。江戸時代、日本橋は幕府が費用を出して架設・維持管理した御入用橋だったが、明治の架け替えには、江戸庶民の積立金が当てられた。正確にいえば、町会所(まちかいしょ)の後進たる会議所の蓄積金、すなわち七分積金(しちぶつみきん)が使われた。
     七分積金は、町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した四万両の七割に、幕府からの一万両を加えて基金にした。町入用の経費は、地主が負担し、木戸番銭・手桶・水桶・梯子費用、上水樋・枡の修繕費、道繕・橋掛け替え修繕・下水浚い・付け替えなどに使われた。維新後は、東京市の財源として活用された。
     同年の明治6年11月には、石造アーチ橋の万世橋が政府の資金でつくられ、以後、石造アーチ橋が十数橋架設されていることを考えると、江戸市民の手になったともいえる日本橋の意味するところは重要であると思える。
  3. あたらしい都市景観の出現
     日本橋の袂には、客待ちの駕篭にかわって人力車がみえ、晒し場のあった南詰東側には日本橋電信局(明治五年開業)がみえる。両国・浅草橋の電信局も、これと同時に開業した。
     図4は、明治半ば頃の日本橋の正月風景を描いている。北詰上流側から俯瞰した図柄である。
     橋上では火消しの梯子乗りがおこなわれ、鉄道馬車(明治15年開通)には日の丸の旗が飾られている。獅子舞のグループも橋詰に見える。
     親柱の上には、ガス灯が設置され、図3にみられた歩者道分離のガードレールは鉄道馬車の開通とともに撤去された。袖高欄の端には黒い郵便ポストが描かれ、中央には日本橋電信局、左手には江戸橋橋詰広場前に建てられた東京郵便局、遠方には最初の銀行である第一国立銀行(明治6年)の楼閣を望見できる。
     日本橋周辺は、経済と金融活動の中心としての顔をもちはじめていた。橋の北側には、明治37年、最初の百貨店である三越呉服店(後の三越)が設立された。同じく江戸以来の呉服店であった白木屋は、日本橋をはさんで覇をきそった。江戸時代の貨幣鋳造所のひとつである金座跡には、日本銀行が設立された。株屋が軒をならべる兜町も隣接し、一大金融街を形成した。
     江戸時代には見られなかったあたらしい都市景観が出現していた。

3 石造アーチ橋の大正・昭和期

 舟運から鉄道への転換、東京駅の完成(大正8年)、あたらしいオフィス街としての丸の内の台頭、関東大震災、魚河岸の移転と、東京の拡大とともに日本橋地区の都市機能も分散、うすめられていく。
 この時期、デパートは高級イメージづくりに成功した。なかでも三越が帝国劇場と提携してつくった広告コピー「今日は帝劇、明日は三越」は、東京市民の話題を集め、ひとつの都市文化を創造した。「百貨店は高級なイメージをつくりだし社会に定着させ、当時の知識階層であった上流、中流階級を顧客として掴まえることに成功したのである」(初田亨『百貨店の誕生』)
 写真2~4は、日本橋の北詰の鳥瞰図である。三越の建物の形から、写真は、それぞれ震災前、震災後、昭和10年以降と推定できる。
 石造アーチ橋の日本橋(明治44年)は、外観は石という伝統的な材料を使いながらも、意匠と構造はまったく近代の橋であった。橋の中味は、当時の最先端材料であるコンクリートと煉瓦を用いた。このように外観が石造りで、中味がコンクリートと煉瓦造の一体型の橋は、日本橋が最初にして最後である(本誌99年6月号)。しかも石は、今までにない真っ白な御影石で、帝都を華やかに演出した。関東大震災後の復興橋梁で、コンクリート橋の表面に御影石プロックを使用したのは、この華やかさで帝都を彩るねらいもあったと考えられる(写真5、6)。

4 高架道路におおわれた高度経済成長期以降

 戦後、舟運機能の衰退とともに、河川空間は無用な存在とみなされるようになった。河川は汚水で汚されて悪臭を放ち、追い打ちをかけるようにゴミがすてられた。隅田川でさえ、埋め立てようといわれた。
 日本橋川も当初、築地川のように埋め立てられて高速道路になる計画だったが、洪水時の水量が多いため、埋立はあきらめられて高架になった(写真7)。
 日本橋の上に高架道路を建設することは地元では反対したが、「東京オリンピックに間に合わす」という錦の御旗の前に反対運動もかき消されてしまった。その後、日本橋上の高架道路の醜さは、文化人などから非難・批判されていたが、ここ十年ぐらい前から、ようやく土木技術者も高架道路の問題を指摘するようになった。
 土木技術者は、ただものをつくればよいというのではなく、土地の歴史を知り、100年、200年もつ都市空間と環境づくりをするのだということを日本橋の例から学んでほしい。

 日本橋400年の歴史を素描して、日本橋とその界隈が大きく変貌してきたことを確認した。日本橋の歴史を要約すれば、国土の要、都市センターなど、日本橋がもっていたさまざまな都市機能が剥奪され、薄められ、さらにいえば日本橋の威厳をおとしめられた歴史であった。日本橋の構造も、交通機関の変遷に応じて、橋面がフラットになり、戦後にはモータリゼーションの到来とともに、高架道路であらたに蓋がけされた。全国の道路の起点である道路元標は橋上にあるが、そのもつ意味は大きく変わった。高札場の位置に碑はあるが、それは日本橋の歴史を伝える情報板にすぎない。
 日本橋界隈では、日本銀行や東京証券取引所そして問屋街など、江戸以来の都市機能を受け継いでいる。しかしその規模や内容は大きくかわり、人のにぎわいもみられない。
 日本橋の上に、高架道路がおおい被さっているように、周囲の建物も高層化・高密化した。日本橋から、江戸城が、そして富士山がみえたとはとても信じられない。
 高架道路がおおいかぶさって、人は橋の上でたたずむことを忘れたようだ。
 日本橋にかつてのにぎわいや都市機能をとりもどすことは不可能にしても、国土の要や江戸の中心であったという事実にふさわしい待遇をほどこすことは必要だと思う。
 昨年(1999)3月、日本橋が国の重要文化財に指定されたことを喜ぶとともに、これを機会に日本橋の再生計画をみなさんとともに考えていきたいと思う。
(※編集部注:表紙は、写真7を元に高速道路をはずした合成写真。随分印象が違う。)


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